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鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

先日、「これからの「正義」の話をしよう」を読んでいた頃だったか。ちょっと哲学的な頭になっていたとき、赤信号で立ち止まっていてふと考えた。

「自分はなぜ立ち止まっているのだろう」

住宅街の中の小さな交差点。3秒もあれば渡れる横断歩道。見通しが良くて到底車は来そうにない。他に誰もいない。渡ったところで事故に会う確率もほぼないし咎める人もいない。

多分、こんな小さな信号は無視してさっさと渡ってしまう人が多いだろう。そういう人はよく見る。だけどそういう人を尻目に自分はじっと立ってることが多い(つられて渡ってしまうこともあるが、それについては後述)。

誰も見ていない、車も来ないのに律儀にじっと信号が変わるまで待ってるのはなぜだろう。「法律で決まっているから」と言われればそれまでだ。自分は遵法精神は高い方だとは思うが、何が何でも絶対、というわけでもないつもりである。他のこういう軽微なものは、法から逸脱することも多いんじゃないかと思う。

一時期、これを「どこかで子どもが見ているかもしれないから」と人に説明したことがあった。自分たちは大人だから、車が来ないという安全を確認した上で、信号が赤だということをわかった上で渡るということができるが、それを子どもが見ていたら「信号が赤でも渡っていいんだ」と思ってしまうかもしれない、ということである。そういう説明は理屈として通ると思ってはいる。しかし、それだけでは説明がつかない。少なくとも先日赤信号でぼけっと突っ立ってた時はそんなことは考えていない。

これはなんだろうなあ、と思った。「法律を遵守すること」「信号を守ること」が正義なのか?道徳的に絶対に正しい「善」なのか?そんな崇高な道徳心を持ち合わせているのか?

そんな大袈裟な話でもないような気がする。

単に何も考えてないだけなのかな。赤信号だ。止まろう。以上、終わり。それだけ。よく見れば車なんか来てないじゃないか、渡ったほうが若干だが時間の短縮にもなる、そんなややこしいことは考えてない。思考停止しているのだ。たまに気まぐれに走って渡ることがある。これは「人につられる」のが理由の1つで、これも思考停止しているから何も考えずに人と同じ行動をとってしまうのだろう。ただ、他の人がいなくても渡ってしまうことがある。これについては説明不能。気まぐれなんだろうが、「気まぐれ」てなんだろう。サイコロを転がしたように、ランダムに自分の気分が変わるのだろうか。

赤信号の件は、思考停止した結果、「法律を守る方」「安全な方」に傾いているからいいものの、反対の方向に傾くと厄介かもしれない。作業所で単調な作業をやっているとだんだん思考停止してくる。単調な作業とは言え、ときどきイレギュラーな作業が紛れ込むことがあるのだが、ちょっと疲れていて本当に機械的に作業をしていると、そういうところでミスることがある。

あとはまあ、結局これは自分が歩いてきた道というかレールからはみ出したくないのだろう、ということかな。「赤信号では止まる」それがもう幼い頃から染み付いている。大袈裟なようだが、それが自分の生き方で、それから逸脱することができない。つまり「タッタッタと小走りに信号無視をして横断歩道の向こう側へ渡る」自分は、既に自分ではない、ということなのか。う~ん大袈裟か。よくわからない。でも昔からそうだったから、今もそうで、これからもそうなのだ。それが一番しっくりくる。でも人につられる。主体性がないのか?

などとどうでもいいことをエクレアを食べながら考えたのであった。


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