今日は9時起床。うう、遅い。目覚ましはかけてなかった。8時に目が覚めたとき、「おおもう8時か、起きなくては」と思った記憶があるのだが、その後の記憶がない。一瞬で寝落ちしてしまったようだ。もっと頑張って早く起きないとなあ。1日の時間を有効に使いたい。
朝から読書。昨日の夜から読んでいた高井信「ショートショートで日本語をあそぼう」読了。う~ん、ちょっと期待はずれかな。一時期はやった(らしい)「あなたの日本語間違ってませんか?」的な内容(例えば「気のおけない」とか「役不足」の意味は?とかその他諸々)を題材にして短い小説仕立てにしたのだが、話自体があまりおもしろくなかったし、作者がずいぶんと狭量で頭が固い。それくらいはもう許容範囲でしょ、と思うことにも「全くなってない」みたいな論調。木の枝は「しなる」でなくて「しなう」でしょう、とか。「言葉は生き物である」ということはわかっているが許容できないと言っている。そんなに言葉が変化していくのが嫌だったら、ひとりで「あをによし」とでも言っていればいいよ。やっぱり清水義範や金田一春彦と言った日本語のスペシャリストの方がおもしろいや。
昨日は一日雨降りだったけど、今日は天気もいいので図書館へ。3冊返して3冊借りてきた。予約している本のうち1冊しか用意できてなかったのだが、明日から図書館が4日間特別休館なので、予約リスト(借りる予定の本リスト)にあって貸出中でない本と、書架をぶらぶらして目に入った本を借りた。
羽田圭介「走ル」
芥川賞候補作と書いてあったのでなんとなく借りてみた。
筒井康隆「ビアンカ・オーバースタディ」
書架の筒井康隆のところを見ていたら、一冊だけ妙に浮いている本があったので手にとって見た。これはマンガか?と一瞬思ったがそうではなく、裏表紙の解説によると「文学界の巨匠・筒井康隆が本気で挑む、これぞライトノベル。21世紀の”時をかける少女”の冒険が始まる!」とある。「時をかける少女」はジュブナイルだがライトノベルではないだろうと思いつつ、自分がライトノベルというものをよく知らないことに気がついた。多分読んだことはない。なんとなくのイメージしかないので、試しに借りてみた。
池井戸潤「不祥事」
ドラマ「花咲舞が黙ってない」の原作。池井戸潤は下町ロケットシリーズと半沢直樹シリーズしか読んだことはないが、いずれもおもしろかったので借りてみた。
図書館の次はバスに乗って横浜東口のそごうへ。そごう美術館で「水木しげる 魂の漫画展」をやっているので見に行った。前々から見たいと思っていたというわけではなく、昨日は一日中家にいたので今日はどこかへ出かけたいな、でも行く所あるかな、と思って横浜近辺で何かイベントをやってないかネットで調べて見つけた。そごうなら近いし美術館なら障害者手帳を見せれば無料で入れるし、気軽に見に行けるのだ。
日曜日とあってけっこう人がいた。美術館って混んでるとけっこうなストレスだな。さっさと次を見たいのに、小さな展示物の前でやけにじっくりと見てその場を動かない人がときどきいる。そこで渋滞しているのだ。もうそこは飛ばして追い抜きたいところだが、それだけじっくり見ているというのはやはり見る価値があるんだろうと思って、じれったく待っている。
私が今まで唯一全部見た朝ドラ「ゲゲゲの女房」で水木しげるのことはある程度知っているつもりだったのだが、ぜんぜんそんなことはなかった。小学生の頃から美術少年で、高等小学校(ということは中学生くらい?)のときに公民館で個展を開いたとか。その頃の作品も展示されているのだが、油絵や水彩画、スケッチといった何の変哲もない(と言うと失礼だが)静物画や風景画が並んでいた。水木しげるはもともとは画家志望だったのだ。戦争で徴兵され、左腕を失うところからは自分の知っている話(「ゲゲゲの女房」はそこから始まる)だったが、晩年の話となるとまたわからない。
漫画家となったらもちろんメインはゲゲゲの鬼太郎とはじめとする妖怪ものであるが、それ以外にもいろんな作品があった。少女漫画風タッチの漫画もあって少し驚く。戦記物や歴史人物伝などが多い。特に戦記物は、水木しげるの「戦争時代の体験を語り継がなくてはならない」という強い思いから、それこそ魂を込めて打ち込んでいたようだ。
思った以上のボリュームがあって、全部見て回るのに1時間以上かかった。会場の外にはお決まりのグッズコーナー。見てると欲しくなるのだ。
その後は遅めの昼ごはんを食べてから、途中買い物をしてバスで帰ってきた。今日はめっちゃ暑いので、思わずアイスに手が伸びてしまった。
涼しくなったり暑くなったり忙しいな。
今日の動画。今日は父の日らしいから。父親をヒーローとして応援する歌、FUNKY MONKEY BABYS 「ヒーロー」。見てわかるが主演は羽鳥アナ。実はわたしは父親と折り合いが悪く、嫌悪しているし軽蔑もしている。ただし向こうは自覚がない。自分がすべての人から好かれていて尊敬されていて、聖人君子のような立派な人間だと思い込んでいる。おそらく自己愛性人格障害。にもかかわらずこの曲は好きなのだ。それは、本当はこんなに「尊敬できる」父親がほしかったという願望でもあると同時に、多分こういう父親になりたかったのではないか、という自分の憧れがあるのだろうと思っている。うちは子どもを作るどころではなかったのでその夢は叶わなかっただけに、この曲に関しては願望と羨望が混じっていると思う。