最近はまた生活のリズムが乱れ始めていて、昨日も起きたのは10時前くらいだっただろうか。いつものようにスマホでニュースをチェックしたら、
「淡路で震度6弱の地震」
との文字が。
一瞬、かなり焦った。18年前のあの日のことを鮮明に思い出したのだ。
一昨年の3.11では横浜でも震度5弱とけっこう揺れたし、テレビで何回も見た津波の映像も強烈に脳裏に焼きついている。しかし、18年前の阪神・淡路大震災のときの「あの1秒」の衝撃は、それをはるかに上回る。
自分が就職して上京したのが1994年。翌1995年1月17日、自分はインフルエンザで40℃の熱を出し、1日じゅう寮の部屋で寝込んでいた。夜になってからテレビをつけたら、何やら燃えている。画面全体が燃えている。火事?なんだろう?と発熱でぼんやりした頭でぼ~っとテレビを観ていて、そのうち「大変なことが起こった」とようやく理解した。
大阪出身の私は、京阪神地区にはたくさんの友だちがいる。みんな、無事なのか?心配になった私は、ふらふらな頭で友だちに電話をかけまくった。しかし、誰にもつながらない。そんなこと当たり前だった。そんなときに電話をするのは却って迷惑になる。そういうことも知っていた。でも電話をせずにはいられなかった。少しパニックになっていたのだろう。振り込め詐欺に騙されてしまう人も、このように冷静さを失ってパニックに陥ってしまうのだろうか。
翌日も熱が下がらず、会社を休んで部屋で寝ていた。テレビはベッドの後ろに置いていたので、寝ている状態では映像は見えないのだが、状況が知りたくて、テレビをつけっぱなしにして音声を聞いていた。
やがて、テレビでは死亡が確認された人の名前が読み上げられていった。そして不意打ちのように、その名前が耳に入った。
「神戸市○○区 ○○☓子さん」
神戸に住んでいる学生時代の友だちの名前だった。自分は脊髄反射のごとくベッドから飛び起きてテレビを見た。
・・・・・・別人だった。同姓同名だが、名前の字も年齢も違った。
人生であんなに焦った瞬間があっただろうか。あのとき、名前が聞こえてからテレビを見るまでの、わずか1秒ほどの瞬間は、今でもスローモーションのように鮮明な記憶となって脳裏に焼き付いている。
その夜だったか、次の日だったか、その友だちの安否が確認できた。彼女はひとり暮らしだったが、実家に電話をかけてようやく無事がわかった。彼女は神戸市の職員だったので、当時はかなり大変だったらしい。
昨日の淡路での地震のニュースを見た瞬間、18年前の「あの1秒」の記憶と、その時の衝撃が一瞬のうちに自分の中に再現された。
今も神戸に住んでいるその友だちにメールをしたところ、神戸は震度3くらいだったとすぐに返事が返ってきた。大丈夫だろうとわかっていても、心配なものは心配なのだ。
震災というのはこんな形でもトラウマを残すのか。そもそも、これはトラウマと呼べるのだろうか。