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鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

カテゴリー:その他諸々

今日はバレンタインデーなので、それにまつわるエピソードを書いてみることにする。バレンタインデーは妻とつきあい始めた頃に手編みのマフラーをもらったりだとか、学生時代に彼女から手作りのチョコクッキーをもらったとかそういう思い出もあるのだが、高校時代の笑い話がある。

高校1年のときだった。私は卓球部に所属していたのだが、2月14日の練習が終わった後、制服に着替えてから下足場で靴を履き替えようとしたときだった。部活の仲間が私に「これ、渡すように預かったから」と一つの包みを手渡して「じゃあ、俺急ぐから」と言って行ってしまた。それは、きれいにラッピングされてリボンがかけられた小さな箱で、手紙が添えられていた。読んでみると、明らかに女の子の筆跡で書かれており、まごうことなきラブレターであった。ただ、差出人の名前はなかった。どう考えても「本命チョコ」である。この時点で頭がお花畑になってしまった。

それを目ざとく見つけた他の部活仲間が「何それ?何それ?」と聞いてきた。私の手元にあるものを見れば何それと聞くまでもない。すると彼らは「それ、開けてみて」と言い出した。私はなんでここで開けなあかんねん、と思ってそれをずっと無視していた。彼らは駅まで歩く途中も電車の中でも「開けてみて」と言い続けて、私が一番最初に電車を降りたのだが、その時に「はまー、ごめんなー」となぜか謝っていた。意味がわからなかった。

家に帰った私は、とりあえずその包みを開けてみた。その瞬間、意味がわかった。出てきたのは私がいつも部活帰りに駅売店で買っている100円のアーモンドチョコ。およそ本命であげるとは思えない代物である。ああ、やられた。毎日そのチョコを買っているのを知っている部活の仲間が私をからかったのだ。それで「開けてみて」と言ってたのか。開けた瞬間「お前らのいたずらかよ!」とその場でなる予定だったんだろうな。

騙されて悔しかったが、まあチョコはもらっておこうと思って開けた瞬間、心底びっくりした。中から出てきたのはチョコレートではなく、石ころだったのだ。

次の朝、授業が始まる前に首謀者と思われる友達の教室へ乗り込んで、そいつの襟首を掴んでこう言った。

「あれ、どうやってん?」

私が包みを開けたチョコは、買ったままのセロハンでラッピングされていた。それを開けるには、よくあるように細い紐みたいなところを引っ張って箱を一周させないといけないのだが、それは開けられていなかったのだ。そいつが話すには、箱の側面のセロハンが糊付けされたところを破れないように慎重に剥がし、これまたセロハンが破れないように慎重に箱を抜いて中身を入れ替え、そしてまたしてもセロハンが破れないように慎重に戻して糊付けしたというのだ。「3個めでやっと成功した」という。あほとちゃうか。

呆れ果てたというか、逆に感心した。人をからかうのにそんな労力をかけるとはなあ、お前らそのエネルギーをもっと有益なことに使え、と言いつつ自分もいつか仕返しをしてやろう、なんて考えていた。そう言えばその時の仕返しはまだだ。そろそろかな。

ちなみにラブレターはもちろん女の子の代筆である。ほんと暇な連中だ。

渡り廊下走り隊7「バレンタイン・キッス」。国生さゆりではなくAKB。

昨日の夜に中島らも「さかだち日記」を読み始めた。最初は中島らもと野坂昭如との対談から始まるのだが、アル中のふたりがアルコールを断ってから何ヶ月で今はどうだ、という話をしているのを読んで、この本が「逆立ち日記」ではなく「酒断ち日記」だと知った。そして対談は数ページで終わり、本当に中島らもの「日記」が始まった。これがこの本のメインコンテンツなのだが、正直ただの日記でつまらない。

さかだち日記

他の人のブログを読む感覚で読んでいたが、その辺のブロガーの方がおもしろいんじゃないかな。もしかすると、元々は人に読ませるために書いた日記ではなくて自分の記録だったものを出版したのかと思ったが、そうではなく「月刊現代」にリアルタイムで掲載されていた正真正銘の作品だった。途中でやめようかと思ったが、せっかく借りたし他に読む本もないので頑張って最後まで読んだ。それにしても忙しい人だな。マルチに活動していた人だったから、やってることがバラエティに富んでいる。でも酒絶ちの話はあまり出てこない。

本の最後はまた野坂昭如との対談。今度はアルコールの話は出てこずに、ひたすらバイアグラの話で猥談が延々と続く。野坂昭如ってこんな人だったの?

この日記は2001年から書いていて、記事数は4,200を突破している。途中で書く頻度が減ってしまって、2015年の後半はほとんど更新せず、2016年の4月から2年近く途絶えてしまった。2018年の1月に約2年ぶりにブログを再開したのだが、2月に入ってこのブログの本体である自宅サーバ用PCが故障したため、新しいPCを調達するまでの間、また数日更新がストップしてしまった。そして障害が復旧した去年の2月13日から再び日記を書き出してから1年。今日で365日連続で日記を書いてきたことになる。これは自分の記録だろう。

日記を再び書くことによって、少し自分が変わってきた。前は漫然と一日を過ごしていたのだが、「なにか日記のネタにならないかな」と日常生活の中でのいろんなことに気を配ったり、今日の出来事をできるだけ覚えておかないと、と意識していたりする。観察力や記憶力をトレーニングしているようだ。これは「できるだけ頭を使うために」と去年日記を再開する時に目論んでいたことで、そのとおりの結果を出していると思う。やはり書くことは意味があるし、書くまでのプロセスも意味がある。

ただ書き散らせばいいというわけではないが、継続は力なりという言葉もある。できるだけ、一行だけでもいいから毎日更新していきたいものだ。

AKB48「365日の紙飛行機」。ちょっと短いけど。「その距離を競うより どう飛んだか どこを飛んだのか」という歌詞がいい。私も日記が何日続くかということだけにとらわれず、内容で勝負したい。

昨日の夜から辻村深月の「鍵のない夢を見る」を読んでいる。ちょっと歪んだ友情や愛情で悩む女性が描かれている短編小説集。こういう人間関係の微妙な機微を描く小説というのは、自分はちょっと苦手、というかよくわからないことが多い。多分鈍感なんだろう。ミステリーやらSFやらのわかりやすいストーリー展開、次はどうなるんだろうとわくわくしながらページを繰る手が止められない、そういう小説でないと面白いと思えないのかな。淡々と話が続いていき淡々と話が終わる。その「淡々」に退屈してしまうのだろうか。たまには意外な結末で終わることもあって、その時はあっと思ったりはするのだが。この本は直木賞受賞作なのだが、その良さがわからないというのは自分はどこか鈍いのだろうか。いや受賞作といっても世間的な評価というより単なる選考委員の評価である。それだけで一般化してもしかたがないだろう。流行語大賞もたった5人で決めてるのだ(それはちょっと違う)。単なる好みの問題だということにしておこう。

実は先日の朗読の会で「坊っちゃん(抜粋)」の練習をした時に、3年ぶりに顔を出したという若い(と言ってもおそらく30代くらいの)女の子が、「坊っちゃんのおもしろさがわからない」と言った。みんなは「個性的な先生のあだ名を付けるところ」とか「いたずらする生徒とやり合うところ」とか、私は「最後は悪いことをした赤シャツとかに鉄槌を下す勧善懲悪なところとかですかね」などと適当なことを言ったのだが、こればっかりは自分の感性との相性があるから、「これは名作だからおもしろいと思え」などと押し付けることはできない。

そう言えば昔どこかで読んだのだが、「人はそれぞれ好みがあるから、他の人がいいと言っているものをいいと思えなくても一向にかまわないが、世の中の大多数の人がいいと言っているものをいいと思えない時は、少し自分の感性を疑ったほうがいい」とあった。大きなお世話だとも思ったが、疑って出てくる結論は「自分はちょっと変わってる」なのだろうか。

とか思いつつ、でも一応読んでいるのだ。これまで読んだ芥川賞受賞作の「蹴りたい背中」「火花」「スクラップ・アンド・ビルド」なんかはとても面白かったので、私の好みは芥川賞で、直木賞はいまいちなのかもしれない。でも自分は純文学より大衆小説の方が好みのような気がするのだが?まあ賞にはこだわらないことにしよう。名作かどうかは自分が決める。と言いつつ次に予約する本を受賞作からチョイスしていたりするのだが。

「ソロモンの犬」読了。面白かった。ミステリーの展開が気になりつつも、この恋の行方はどうなるのかとそっちも気になりつつ、途中「え~!そんな~まじ~?」という展開があって、ちょっとがっかりしながら読み進めていたのだが、実は小説のトリックで、あとから「騙された~」と思ったのだった。これはミステリーではよくある手法なのか、そう言えばちょっと前に読んだ小説でもあったぞ。あの時も「騙された~」と思ったのであった。最後の終わり方は、あああこうやってじらしたところで終わるのね、というパターン。本当はその続きが知りたいのだが、そこは読者の想像におまかせしますということなんだろうけど。

これだけでは何を書いてるのかさっぱりわからんな。でも具体的に書くとネタバレになってしまうのでこれくらいにしておこう。

ところでミステリーを読んでいると、人が死ぬのだ。ミステリーだから当たり前なのだが、それが自分の思い入れが強い、自分が感情移入している人物だと、なんだかもの凄くショックである。まるで自分が殺されたような気がする。以前はそんなことなかったんだけどなあ。人の死に対して敏感になってるのだろうか。