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鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

カテゴリー:その他諸々

万城目学「偉大なる、しゅららぼん」読了。琵琶湖に授けられた能力を云々という摩訶不思議なお話。むっちゃおもしろかった。この不思議な世界観と特殊能力系は「鴨川ホルモー」と同じ匂いがするなあ。なんというか、「くにゅっと曲がったおもしろさ」というか。これじゃ伝わらんか。「しゅららぼん」ってなんだろう?と思って読んでいたが、擬音語であった。物語で出てくる「聞くに堪えないものすごく不快で形容しようもないある音」を強引に例えると、そうなるらしい。こういう話は映像化しにくいだろうなあ。

大阪で育った自分にとって琵琶湖は懐かしい場所である。遠足で琵琶湖にほど近い石山寺に行ったり、大学のサークルの新歓合宿で琵琶湖のほとりの宿へ行ったり、友だちとドライブで琵琶湖まで行ったり。琵琶湖は関西の水源で、滋賀県の人が大阪の人にdisられたときに、よく「琵琶湖の水止めたろか」と言うのを思い出す。

ところで、この小説に「かわらけ投げ」が出てきてとても懐かしかった。かわらけとは小さな丸い素焼きの陶器で、かわらけ投げとはそれを遠くに投げることで厄除けを行うというものである。私は1回だけやったことがある。大学の1回生のときに、サークルの同級生ともみじ狩りに行った。京都の紅葉はそれはそれはきれいである。それを見に、あれはかなりの人数がいたな、同級生15~16人くらいの大所帯で高雄山(高尾山ではない)の神護寺というお寺に行った。そこで「かわらけ投げ」をやった。高台にあったこのお寺から、谷底へかわらけを投げる。遠ければ遠くまで飛ぶほどいいとかいう話だったと思う。

紅葉を楽しみながらてくてくと歩き、河川敷でお昼ごはん。女の子たちがお弁当を作ってきてくれたのだが、開けてびっくり。みんな気合い入りまくりで、母親に手伝ってもらった子もいたとは思うが、とにかく豪華なのである。男性陣は目を丸くしていたのだが、あれは女性陣のアピールタイムだったのかもしれない。量が多くて誰かが作ってきたポテトサラダが大量に余りそうになったのだが、残したらかわいそうだと思って友人Kが頑張って全部食べた。そのあと山の中を夕方まで歩いたのだが、食べすぎて苦しいのかそのKは「疲れたよ~、おぶってよ~」と言い出した。もちろん冗談なのだが、それがおかしかったので彼はその後数年間「おぶってよ~」とからかわれることになる。

山道を数時間歩き、地上に降りてきて最後はJRのどこかの駅(保津峡だったかな?)で記念撮影し、その後は山陰線で帰ったのを覚えている。あれは楽しかったなあ。お目当ての子が来てなかったのが唯一残念だったのだ。懐かしい記憶がまた掘り起こされた。

今日は調子は悪かったが、夜になるとましになった。日内変動というやつである。明日の朝になるとまた調子が悪くなっているかもしれない。それは置いておいて、妻が日テレで放送していた「THE MUSIC DAY」を観ていたのだが、AR(拡張現実)をやっているというのでスマホにアプリをダウンロードしてやってみた。

キンプリAR

キンプリAR

King & Princeである。アプリをダウンロードしたのが遅くて、パフォーマンス中のARには間に合わなかったが、その後のおまけのARは見れた。

続いてのARは松平健だったのだが、いざ歌って踊っている途中にアプリが固まり、落ちてしまった。う~ん、このauで一番安い機種では非力すぎたか~。急いで再起動したものの、歌は終わってしまった。次はもうちょっとスペックの高い機種にするべきかなあ。端末代が高くついてしまうのだ。

松平健AR

ちょうど歌が終わったところである。しかししばらくARは続いていたので、

松平健AR

ひとりで踊っていたり、

松平健AR

畳の上で増殖していたりした。

最後のARは乃木坂46だったのだが、これまたパフォーマンスが始まったらアプリが落ちてしまい、再起動。しかし起動に時間がかかり、立ち上がった時には歌は終了。キンプリとまつけん同様、パフォーマンス後にARがちょいとあったのだが、それすらアプリが重たくてなかなか反応しない。やっとこさ撮れたのがこれ。

乃木坂AR

これはやっぱり端末の問題かなあ。もっとスペックのいい機種がほしい。

おー!

おー!

筒井康隆「ビアンカ・オーバースタディ」読了。短いからすぐに読めてしまった。裏表紙には

「文学界の巨匠・筒井康隆が本気で挑む、これぞライトノベル。21世紀の”時をかける少女”の冒険が始まる!」

と書いてあり、ライトノベルのことはよく知らないけどとりあえず読んでみた。

少し読むと、ふむふむ、学園モノで美少女が出てきてエロくて、漫画とかアニメとかゲームとかの世界のような「都合のいい」話が続く。そういうのがラノベなのかな、と思っていたら、なんだか途中からわけがわからなくなってきた。話はどんどんおかしな方向へ転がっていき、いやまあとてもおもしろいのだが、う~んエロいのはいいがグロい、というかこんな残酷なのは「ライト」ではないし、SFはいいとして生命倫理的にはNGな、いや小説としてはありなんだろうが「ライト」ではないだろうし、そしてどんどん話はおかしくなってしまって、結局最後は筒井康隆ワールドになってしまった。なんじゃこりゃ~?確かに時はかけるけど、時をかける少女どころではない。

そして読み終わってから「あとがき」を読む。こんなことが書いてある。

この本にはふたつの読みかたがある。通常のラノベとして読むエンタメの読みかた、そしてメタラノベとして読む文学的読みかたである。

そうか~、つまり確信犯的に「筒井康隆が『ラノベ』を書くとこんなことになるぞ」という意図で書いた、清水義範の書くパスティーシュ的な小説だったんだろう。そしてこんなことも書いてある。

ラノベの読者は多いから、できればこの本を読んだ何分の一かの読者を、わが本来の作品に誘導したいだけなのである。

う~んそれで最後は筒井康隆ワールド全開だったわけね。やっぱ筒井康隆はおもしろい。

村上龍「69」読了。私が生まれた1969年のことである。学生運動の影響で東大が入試を中止したその年に、九州の高校を舞台にエロくてアカい高校生が青春する物語。下心から政治活動ごっこに走るお調子者の主人公がおもしろい。この頃は高校生もそういう思想に偏っていたのかな。私が大学生の頃は全国的にはそういう運動は下火になっていたが、うちの大学に限ってはそういう輩や団体はまだまだ健在だった。

なんかこういう青春小説を読むと、自分の若い頃を思い出すのだ。若いっていいなあ。なにかイベント企画したい。運営側にまわるのはけっこう好きなのだ。学年一のマドンナを彼女にしたというのは、こういう小説では自分的にはちょいと反則だろうと思う。主人公は多少ずっこけてほしいのだ。手に入れようと思うけど結局ふられるとかね。

・・・なんて思って読んでいたのだが、最後まで読んでから「あとがき」を読んでびっくり。「全部実話。登場人物も全て実在の人物」だったとは。そうかあ村上龍の青春時代はこんなんだったんだなあ、楽しそうで羨ましい限りである。まじで高校でバリケード封鎖なんてやったんだ(それも私が生まれた日に)。私もまだまだこれから一花咲かせるのだ。