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鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

カテゴリー:メンタルヘルス

入院準備をすすめてるが、なかなか進まない。なんだかんだ持っていくものが多くて、めんどくさい。ポータブルCDプレーヤーが見つからない。調子悪くしてからぜんぜん部屋も片付けてないので荒れ放題。どこに何があるかさっぱりわからない。

部屋に「検索」ボタンがほしい今日この頃。

ようやく病院から連絡があった。8/2(木)、あさってに入院だそうだ。さて、準備しなきゃ。何持っていったらいいだろう。

今日、勧められた病院へ行ってきた。

電車に乗り、バスに揺られて着いたその病院は海のそば。潮の香りがする。病院はいささか古めかしい。新しくてきれいな病院に行きなれた身としてはなんとなく不安。

初診受付を済ませ、呼ばれるまで病院の1階をうろうろ探検。なんと、グレ電がな~い。病院なので当然携帯もPHSも使えないので、どうやってメールをやり取りすればいいのだー!もはやメールがないと生きていけないのに。そもそも通信できなければこの日記もアップできないではないか…。まあ、それはノートPCを持って庭にでも出てP-inでつなげばなんとかなるか。と思い直す。

名前が呼ばれ、部屋に入っていく。診察室ではないようだ。白衣を着た女性から、今までの経過や、昔々からのこと、特に家族とのかかわりについて根掘り葉掘り聞かれた。いろんな話を聞いてくれた。ここまで突っ込んで話を聞いてくれた人はなかった。会社の産業カウンセラーは、家族の問題については軽く流すだけで、あくまでも自分中心の問題だけに焦点をあててカウンセリングをするだけだった。

「心理カウンセラーはそういう傾向が多いのよね」

彼女は言った。そういう彼女は「ソーシャルワーカー」だそうだ。私のように社会からドロップアウトしかけた、あるいはした人を救うための仕事だとか。そのためには、本人だけでなく、周りの環境、周りとの関係がとても重要だとか。病院でこんなに長い時間、話を聞いてもらえたのははじめてなので嬉しかった。

次に医師との面談だが、同じことを繰り返すだけ。とりあえず入院予約しますか、ということだがベッドが空いてないので空くまで待つことになった。いつ空くかはわからない、前日とかにいきなり「明日から来てください」と言われることもあるとか。ということは退院するときも、ぎりぎりまで医師が判断をくださない、ってことだな。

入院の説明の紙をもらう。「入院時持ち込み禁止」に、なんと「ワープロ等」とある。「ノートパソコンもだめですか」と聞くと「だめです」との返事。

「なぜだめなんですか」
「壊れても責任持てないので、高価なものの持込はご遠慮ください」

別に壊れても責任とってくれなくていいよ~、なんでだめなの、と思いつつ、はたと「壊されても」というニュアンスなのだろうか、と気づく。いいや、だまって持ち込んじゃえ。取り上げられたら、「使うときだけ返してください」と言えばなんとかなるかな。

今日は比較的元気な方だった(でもしんどい)ので、そのまま会社により、上司に事情を説明し、そのまま家に帰る。

いや、そのまま帰ろうと思ったら突然ものすごい雷雨。電車で一駅なのに、そのまま終着駅まで行って、駅前の家電ショップで雨宿り。ようやくやんだ頃に帰ったら、今度はマンションを含め辺り一帯が停電。暑くて部屋にいられないのでしばらく向かいの中華屋でラーメンを食いながら暇をつぶすが、一向に復旧する気配はない。

いいかげんしんどくて横になりたかったので、ふたたび電車に乗り、リフレクソロジーの50分コースを受けて帰ってきた。足裏マッサージは疲れが癒されるので最近お気に入り。

鬱を発症してから4年。2回も休職するも、なかなか病状が安定せず、ついに2001年7月に「もう入院するしかないですね」と医師に言われる。
通院している病院は総合病院だが、精神科の入院施設はない。普通の病床ならもちろんあるのだが、精神科の入院というのは、施設も看護体制も他科と大きく異なるらしい。

「すこし遠いですが、療養するのにいい環境の病院がありますから」

そう言って、医師はK病院への紹介状を書いてくれた。
ついに精神病院に入院するところまで落ちてしまったのか、自分。
精神病院ってどんなところなんだろう。怖いところなんだろうか。どんな患者が他にいるんだろう。

不安はつきない。

だから、この時から思っていた。

「自分の体験したことを、できるだけ記録として残そう」

そして、自分の「精神科病棟入院日記」は幕を開ける。
自分が2001年の8月から2002年の3月まで入院した時の日記である。

ハンドヘルドPCを持ち込み、毎日日記を書いては、こっそりと日記サイトにアップしていた。
そして、自分の知り合いに「こういうものを書いているから読んでほしい」とメールしまくった。

自分を心配してくれているのか、「精神病院で起こっていることを、毎日リアルタイムでアップする」というものが皆の興味をひいたのか、あるいはその両方か、読者の数はたちまち3桁に達した。

しかし、1ヶ月くらいで公開はやめてしまい、日記サイトからも記事を削除してしまった。これは、あまりにも詳細に書きすぎたため、出てくる人名も地名も匿名とは言うものの、読む人が読めばどこの病院のことかわかってしまうおそれが出てきたからだ。

そうなると、自分のことが書かれているとわかった患者に迷惑をかけるし、自分自身、病院側にバレたら強制退院になりかねない。

そんなことになると、なんのために入院したのかわからなくなる。

だから、私は公開するのをやめた。しかし、日記は書き続けた。休み休みだけど、誰にも読まれないかもしれないが、書き続けた。

17年以上たった今、その病院ともとっくに縁は切れているし、当時のことを覚えている人もほとんどいないと思うので、その頃書いた日記を見直し、加筆訂正して一気にアップした。ただし、記録としては残念ながら最後の10数日分が残っておらず、尻切れトンボである。また極めて個人的なことなどは割愛しているので、極端に内容がない日や前後のつながりが不明瞭なところも多々あるが、ご容赦願いたい。

ちなみに、これは実際には2018年8月14日に書いている。