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鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

カテゴリー:メンタルヘルス

昨日も寝つきが悪かった。悪かったなんてもんじゃない、眠剤を飲んで23時に寝ようとしたのに、3時過ぎまで眠れなかったのだ。1時過ぎ頃には寝るのをあきらめてPCに向かっていたような気がする。昨日、テンションの高い子供と遊んだので、神経が興奮していたのだろうか。それにしても最近眠剤が効かないことが多い。この間の診察でも言ったのだが、とりあえず薬はそのままだ。

それでもいつの間にか寝てしまって、7時頃目が覚めた。なんとなくテレビをつけてポンキッキーズを観ていた。その後何をしていたか、記憶は定かでないが、多分また寝てしまったのだろう。

昼に起きて、いつものごとくパンを買いに外へ出る。今日は暑い。もう初夏の陽気だが、風が強く吹いていて、涼しくてちょうどいいくらいだ。午後の時間は何をするともなく、なんとなく過ぎていった。

夕方になって外出する。今日は合唱団Pの練習に行くのだ。ちょっと早めに出て、横浜の三越のユニクロに寄った。ユニクロは減収減益らしいが、確かに以前と比べると週末にしてはそんなに混んでない。前はもっと客がひしめきあっていた。Tシャツを2枚とカッターシャツを買う。

その後電車へ乗って移動。練習解除の最寄り駅へ着くと、小雨が降っていた。今日は降水確率10%だったはずだが、0%でないから文句は言えない。駅前のマックで夕食を食べて練習まで時間をつぶす。食べ終わって一服していると、店員さんが2人くらい外に出て行ってなにやらはしゃいでいる。どうやら虹が出ているらしい。それを聞きつけた他の客が見に出て行って、携帯で写真を撮って戻ってきた。あ〜、俺の携帯もカメラがついてたらこんなときに撮れるのになあ、なんて思っていたら彼女からメールが来た。「虹が出てるよ!」だと。横浜でもあの虹は見えているのだろうか。もっとも虹は光学現象であり、「どこに」あるものでもないから「あの虹は」というのも変な話だが。

合唱団Pの練習では、バードやラッススのモテット、それにブラームスの曲を1曲やって前半終了。後半はプーランク。やはりプーランクはむずい。MIDIファイルを使って少しは音取りをしていったのだが、なかなか思うように歌えない。歌詞がフランス語というのがまた難しい。宗教曲ならたいていラテン語だからまだましなのだが、世俗曲は難しい。

今日は実質的に夕方から活動したから、そんなに調子の悪さは感じなかったが、明日はどうだろうか。明日は学生時代の合唱団の同期の集まりが11時半から新宿である。それに間に合うようにちゃんと行けるだろうか。

今日は診察日だった。12時の予約で、それに間に合うように行こうと思ったら10時半までには家を出ないといけない。が、間に合わなかった。10時半頃に彼女が電話をくれたのだが、「今から行くよ」と割とはっきりと答えた記憶がある。そしてまた寝てしまった。かなりはっきりと寝ぼけていたようだ。

12時をまわってから家を出る。診察では相変わらず午前中が不調なことを話す。「1年くらい経ちますね…」主治医はそうつぶやく。もう退院してから1年以上経過するが、相変わらず状態はよくならない。そして主治医はこう切り出した。「『電気けいれん療法』というのがあるのですが。」おおお、ついに出たか電気けいれん療法。私はうつ病の本を読みまくったので、この治療法についても知識はあった。頭に電極をつけて電気を流し、ショックを与える治療法である。昔はそのまま電気を流していたので体がけいれんしてかなり苦痛を伴うものだったらしい。今ではその療法も改良されて、麻酔をうって患者は眠った状態になり、さらに筋弛緩剤を使用してけいれんも抑えるそうだ。私が読んだ本によれば、効果はかなり高く、欧米では比較的よく行われているが、日本では人道的見地から反対する人も多く、あまり行われていないらしい。

安全なものなら試してみる価値はあるが、そこはやはり疑問が残る。今日の医者の話なら、実際にやろうと思ったら、この病院ではできないので他の病院に入院し、1ヶ月くらいの間に週に2〜3回くらい電気療法を行うそうだ。そうそう、副作用として「過去数日間の記憶が飛ぶ」と本で読んでびびった記憶があるので、その点を聞いてみたら「その瞬間の記憶は飛びますが、過去に遡って記憶がなくなるということはありません」と言う返事。何が本当なのだろうか。私が読んだ本では「ほんの数日間の記憶が飛ぶくらいで治るなら安いものなのに、なぜ日本ではあまり行われていないのか」と書かれていた。安いものかどうかは人によるとは思うが、何もできないような数日の記憶と引き換えに、数年来苦しんでいる病気が治るのであれば、確かに「安い」とは言えよう。しかし、本当に「数日の記憶」で済むのか、それが心配だ。

その治療を選択するかどうか、とりあえず急いで決める必要はない。「こういうのもありますが」という感じで紹介してくれただけのようだ。まあ、実際にやることはないような気がする。

帰ってからやけに疲れが出た。夜までまた寝てしまった。病院へ行くだけで1日が終わってしまう。やれやれ。

昨日はなぜか眠剤が効かず、朝の3時か4時頃まで起きていたと思う。いつの間にか寝てしまって、昼前まで浅い眠りで、寝たり起きたりを繰り返していた。

昼頃、動けなくもない。いつもならパンでも買ってきて食べて、結局外に出るのをあきらめてしまうことが多い。今日はまず動いてみよう。そう思ってとりあえず外に出た。

横浜まで行って、まず眼鏡屋に行く。実は昨日シャツを脱ぐときに眼鏡を引っ掛けて、少しゆがんでしまったのだ。そのせいで見え方がちょっと変になって早く直したかった。VIVREの上のパリミキへ行って直してもらう。他にも眼鏡屋はいっぱいあるのに、なぜわざわざこの店まで行くかというと、この眼鏡を買ったのがここだからだ。別にゆがんだ眼鏡を直してもらうくらい、どこの眼鏡屋に行ってもただでやってくれる。にもかかわらず買った店へわざわざ行くのは、どうも私の中に、なんかしらないけど遠慮がちになってしまうところがあるからだ。買った店なら堂々と持っていけるけど、そうでない店へ行って無償で直してもらうというのが、精神的にすっきりしないし、何かひけめを感じてしまうのだ。自分の性格の中の「わがままになれないところ」「自己主張をできないところ」「卑屈なところ」だと思っている。なんかしらんけど、とにかく少しでも他人に迷惑をかけたらどうしよう、自分のせいで不快な思いをさせたらどうしよう、そういうことを考えてしまうのだ。

眼鏡を直した後、そのまま地下に行ってラーメンを食べ、さてそれからどうしようかと考える。デイケアに行くにも時間が中途半端になってしまった。原点に立ち戻って、「自分は何をしたいのか、何をしたくないのか」考えたが、それがどうもわからない。帰って寝たい、というほど調子は悪くないのに、何をすればいいのかぜんぜん思いつかないのだ。ゲーセンで遊びたくもないしウィンドウショッピングをする気もない、漫画喫茶に入りたいとも思わない。結局ちょっとその辺をただうろうろしただけで帰ってきてしまった。

帰ってきてから、雑誌の付録についていたPC用のゲームを片っ端からインストールしては一回遊んで消して、それを繰り返していた。結局やりたいことをやっているわけではなく、時間をつぶしているだけなのだ。そして本当にやりたいことは見つからない。自分ではわからない。本当の心との風通しはまだまだ悪い。

今日は昨日と一昨日の疲れが一気に出たのだろうか。一日中寝ていた。

実は朝10時半から内科の予約があったのだ。ダイエット通院で、先月の血液検査の結果を聞きに行く予定だった。彼女もバイトが休みだから一緒に行く約束をしていて、10時にうちに来て、と言っておいた。

そして今朝、体は全く動かなかった。約束どおり彼女が10時頃やってきたが、私がぜんぜん動けないのでまた帰っていった。私はその後14時過ぎまで寝ていた。

やっと動けるようになって昼食のパンを買ってきて食べたものの、またしんどくなって寝てしまう。そして17時過ぎまで寝ていた。彼女が再びやってきてやっと起きた。今日は内科の病院に行った後に関内のカレーミュージアムに行こうと約束していたのに、昼間に行けなかったので、これから行こうということになり、外へ出て行った。昨日まで暖かかったのに少し肌寒い。

3月に新装オープンしたカレーミュージアムは少し様変わりしていた。カレー屋の店舗自体は少し減ったような気がするが、その代わりに屋台のような小さな店ができていて、全体の店舗数としては増えている。今日は「カリイ本舗」という店に入って「昔の焼きカレー」を食べた。カレー自体は割りと普通で彼女曰く「カレーマルシェみたい」ということだが、グラタンみたいに器に入れて焼いたようで、香ばしくておいしかった。次はどこの店に入ろうか。

帰ってきたらまたどっと疲れが出た。まだ疲れが残っているのか。

昨日は結婚式でとっても疲れた。今日はもう一日中動けないだろう、しばらく後を引きずるかもしれない、そう思っていた。

が、今日は久しぶりにカウンセリングに行くことができた。土日の合唱の練習に出れて「明日もこの調子で」と思ったときは体が動かなくなる癖に、あきらめたら動けたのはどういうことだ。

まあ、動けたといっても13時過ぎからである。本調子ではもちろんない。だが今まではこの時間になっても「動けそうで動けない」状態が続いてた。何が自分を引き止めているのか。

それは今日のカウンセリングの中で少しずつ見えてきた。早い話、自分の本音、自分の深層心理の中で「行きたくない」と思っているから、ということなのだ。そして自分はそれを自覚していない。なんとしてでも「行かねばならぬ」ものとして、強烈な「超自我」によって自分の無意識を抑え込んでいる。「超自我」と「無意識」は強烈にぶつかり合い、鬱という形で現れる。自分の無意識、この場合「行きたくない」という思いに自分が気がつかないことを、心理学では「否認」というらしい。そう、自分はずっと否認し続けているのだ。

この無意識下の自分の本音を実感として受け止め、自分の意識の中に取り込めば事態は好転する、らしい。だが自分は未だ認めることができない。すると、「行かなければ」という「理性」の声に対して、それを引き止める無意識の声が強引に自分を抑え付ける。それが「鬱」として現れる。もう何度も同じことを書いているような気がする。でも依然として自分では実感としてわかってないのだ。

簡単な話だ。歌の練習は「行きたい」から行けて、デイケアやカウンセリングは「行きたくない」から行けないだけなのだ。だが「行きたくない」という自分が自分の中に存在することを自分の理性は認めようとしない。昨日の結婚式は単純に「行きたくないわけではない」から何とか行けたのだろう。

そして今日のカウンセリングに行けた理由は、もっと大きな「いやいや」が自分の中に発生して、これを食い止めようとしたから。何のこっちゃと思うかもしれない。先週デイケアのスタッフから電話がかかってきたことは前に書いた。そのスタッフとは私のカウンセラーその人なのだが、「この状態だと入院した方がいいんじゃないか?」と言われたことが自分にとって相当ショックだったようだ。自分のことなのに「ようだ」という風に表現しなければならないのは悲しいが、ともかくそうなのだ。もっと大きな「いやいや」とは「入院すること」なのだ。入院はもうごめんだよ。私は大丈夫だから入院する必要はない。今日はそれを言うためにカウンセリングに行けたのでは、「行きたくない」よりも「入院したくない」が勝っただけなのではないか。カウンセラーと1時間近く話して出た一つの仮説がそうなのだ。あくまでも「仮説」であり、本当にそうなのかはわからない。自分で気がつかなくてはならない。

まあ、なんにしろ「本当の自分」を自分で意識して初めてコントロール可能になる。「本当の自分」を見つけられる日は来るのか。自分探しの旅はまだまだ続く。