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鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

カテゴリー:日々の出来事

昨日の昼、妻に「そろそろ生活保護の相談に行く?」と言われた。

そうだった。先日の帰省で交通費などたくさんお金がかかることはわかっていた。妻の生命保険を解約すればまだ多少延命はできるものの、現時点ではもう貯金は待ったなし。だから、法事が終わったら生活保護の相談に区役所に行こうと言っていたのだ。

しかし、不意をつかれたように言われたその言葉に、自分は動揺した。「今?」と妻に尋ねたら、「今・・・じゃだめ?」との返事。さらに動揺した。とたんに気分がずーんと重くなり、鬱に落ちてしまった。そして、まだ疲れが抜けきってないのと、夜の眠りが浅いこともあってか、そのまま夕方くらいまで寝てしまった。

自分は、まだ覚悟ができていない。

生活保護という制度は、憲法で保証されている基本的人権を守るための、最後のセーフティーネットである。最近では不正受給やら働けるのに働かないやらの問題もあるが、本当に困っている人にとっては最後の命綱であり、自分たちが本当に困っていることは事実である。

しかし、たとえ頭でわかっているつもりだが、現実を見ることを拒否している自分がここにいる。「生活保護には頼りたくない」のが本心であるし、実際に友だちにもそう話している。しかし、みんな口をそろえて「そんな引け目を感じなくても、堂々と生活保護を受けたらいいよ」と言ってくれる。

違うのだ。引け目を感じる、というのとは違う。生活保護を実際に受給している方々には大変失礼だということを承知で敢えて書くが、自分の中には「そこまで落ちぶれたくない」というプライドがまだまだ根強く残っているのだ。

人生、何もかも理想通りに運ぶことはない。とは言え、別にそんなに高い理想を掲げていたわけではない。普通に就職して、普通に結婚して、普通に食べていけるだけのお給料をもらい、2人くらい子どもを作って明るい家庭を築いて、そんな「当たり前の日常」が自分の理想だった。自分が生活に困窮することになるなんて、ゆめゆめ思ってもいなかった。

だが、病気になってから、どんどんその理想から現実が離れていった。

「なんでこんなことに」
「本当ならこんなことには」
「本当ならこんなはずでは」

いつも心の底ではそう思っていた。

本当も何も、今実際に自分に起こっているできごと全てが本当のことなのだが、自分の中の「本当なら」は、上に書いた「平々凡々な家庭」だった。それすらも叶わないどころか、あとは生活保護に頼るしかないということが、最後の最後まで受け入れられない。それを阻んでいるのは、今となっては何の価値もないプライド。

あまりこういう書き方はしたくないが、自分は子どもの頃から優等生だった。
当たり前のように進学校に入り、当たり前のように一流大学に入り、当たり前とはいかなかったが、バブル崩壊の直後、4次面接まで突破して一流企業に入って、ばりばり仕事をしていた。独身時代、それも病気になる前は個人的にはかなりバブリーだった。あまり表には出さなかったつもりだが、エリート意識はかなり高かった。

麻痺してしまった金銭感覚を落とすのにはかなり時間がかかったが、年月をかけて刷り込まれたエリート意識は未だに自分の中に根強く残り、よけいなプライドを落としきることができない。

先日、学生時代の友人たちと久しぶりに会えて、本当に楽しかったのだが、その反面、ものすごく羨ましかった。世界中を飛び回っている優秀な医者もいれば、アメリカの科学雑誌に論文が掲載された優秀な研究者もいる。みんな働き盛りで「超忙しい」人ばかりである。彼らは彼らで大変だろう。しかし、それが私には羨ましかった。

人と比べてもしかたがない。昔の自分と比べてもしかたがない。しかたがないとわかっていても、どうしても比べてしまう自分がここにいる。そして卑下する自分がここにいる。

あるがままを受けれられる覚悟が、自分にはまだできていない。

現実は残酷だ。

二泊三日の帰省。

体調が芳しくない自分にとって、怒涛の3日間であった。

朝早くに起きて新幹線に乗り、お昼には梅田で友だちとランチ、そのまま夕方までお茶。
そこから大阪の中でも田舎の自分の地元に移動し、兄夫婦の家にお世話になって、翌日は母の三回忌の法要。小学1年生の姪に「ぽんぽこ兄ちゃんが来た~」と呼ばれ、さんざんおもちゃにされた。

ここまでは予定通りだった。と言うか、ここまでしか予定は立てていなかった。もう一泊して3日目は、まあゆっくり帰ろうか、などと漠然と考えていた。

ところが、沖縄で仕事をしている従兄弟が、偶然にも大阪に帰ってきてるという。この法事のために帰ってきたというわけでもなく、別の用事があったらしいが、ちょうどいいタイミングなので、十数年ぶりに会うことができた。一緒に母のお墓参りをしてから別れたが、これは思わぬ収穫だった。しんどくても帰郷してよかった。

そのまま兄夫婦、弟ファミリーと一緒にファミレスで食事をしたのだが・・・・、

7歳児と3歳児。

子どもは風の子元気な子

疲れた。

お店に入ってから出るまで、およそ2時間。ぬるぬるとお茶をしていたわけではなく、全部食べ終わるまでの時間である。

3日目になって、もうくたくたになっていたところ。ダメ押しのダメ押しであった。疲労困憊。

いったん兄の家に引き上げたのが15時くらい。もう一晩泊まっていけば、と兄だったか義姉だったかに言われたが、風邪をひいている妻の心配もあり、なんとか当日に帰ろうとして、夕方に出発。

新大阪より京都駅のほうが近いので、京都駅まで移動。新幹線の指定券を取ろうとしたら、さすがに三連休の最終日の夕方。タッチパネルで一番早く空席がある列車を選択して、「窓際」「通路側」「シェフのおまかせ」の選択をしたら、

「ご希望の指定券がとれませんでした」

の表示。それを繰り返すこと幾度か。もう秒単位の争いである。やっと1時間以上あとの新幹線の指定席が取れた。

そして土産屋。京都というと八つ橋が定番だが、私は必死に阿闍梨餅(あじゃりもち)を探していた。おかしいな、前はあったのに、おかしいな前はあったのに、見当たらない。店員に聞こうと思っても激混みでなかなかつかまらず、やっとつかまえて「阿闍梨餅はありますか」と尋ねたら「完売しました」の冷たい言葉。「そこをなんとか」と食い下がること小一時間(なわけない)。しかたがないから八つ橋を持って長蛇の列に。それでくたくたになり、ダメ押しのダメ押しのダメ押し。

家に帰ってきたら21時頃。かなり疲労を溜め込んだが、無事に予定も、予定外のこともこなせた。ああ、明日からしばらく寝込むなあ、と思っていたが、

朝起きたら以外に元気。

もしかして自分、やればできる子なのだろうか?

心配していた体調も何とかなり、友だちとも久しぶりに会って話ができたし、法事も無事に終わった。友だちは2週間前に緊急招集をかけたのだが、自分を含めて9人も集まってくれて、プチ同窓会状態だった。何度も何度も書いてるが、友だちは財産である。
法事もつつがなく終わり、やっと母にお線香をあげることができた。とりあえず最後まで(まだ大阪だけど)体力がもって良かった。
それにしても・・・、
7歳児と3歳児。
子どもは風の子元気な子。
疲れた。

横浜は珍しく雪。どうやら関東一円は大雪のため、いろいろ大変なことになっているようだ。

 20130114snow.JPG

横浜に雪が積もったのは久しぶりのような気がする。何年ぶりだろう。
この雪景色を見ると、母が亡くなったときのことを思い出す。

一昨年の2月、入院中の母の容態が悪化したとの知らせを受けて、かなり調子が悪い中、重い体を引きずって大阪へ帰り、病院へ直行。

母は、前に会ってから1年も経ってないのに、まるで骨と皮だけのようにやせこけていた。最後には精神的にも少し異常をきたしていたが、私が来たのを喜んで、
「○○(私の名前)が来てくれた。○○が来てくれた」
と無邪気な子どものように叫んでいた。

しかし、30分くらい話したところで、
「あんたは早く帰り!あんたは早く帰り!」
と言われた。

母はいつも私の体調のことを気遣ってくれていた。心配ばかりかけていた。

私が横浜からはるばる駆けつけて、疲れているだろうから早く休みなさい、そういう親心が、少し歪んでしまった精神というフィルターを通して、こんな言葉になったのだろう。あの優しかった母が、智恵子抄の一節のように壊れていくのを見るのが切なかった。

翌日、兄夫婦の家に泊めてもらった私は、兄と一緒に再び病院へ行った。その日は今日の横浜と同じように、かなりの雪が降っていた。兄とふたり、駅までの急な坂道を、転ばないように気をつけながら登っていった。

その日も少し話しただけで、
「あんたは早く帰り!あんたは早く帰り!」
と言われた。

その後、少し容態が安定したと看護師から聞いて、その翌日に横浜に戻ることにした。帰るときにまた病院を訪れ、
「僕、いったん横浜に帰るからな。また来るから」
と言ったら、母はその日も、
「あんたは早く行き」
と言っていた。

私はおとなしく横浜へ帰った。

その翌日の夜10時頃だったろうか、母が亡くなったと兄から連絡を受けた。
兄は、
「ありがとうな。ほんま、ありがとうな」
と私に繰り返して言った。

自分は震える声で、
「お兄ちゃん、いろいろ大変やと思うけど、よろしく頼むな」
と言うのが精一杯で、その後はずっと泣いていた。

夜遅くに亡くなったから、お通夜は翌々日くらいになるだろう、と思って休むことにしたのだが、0時頃に再び兄から電話がかかってきて、
「明日のことやけど」
と連絡が入り、お通夜が午後6時から、納棺式は3時からと言われた。そんなにすぐにやるとは思っていなかったので、私と妻は急いで大阪へ帰る準備をした。しかし、私はかなりしんどいなか横浜と大阪を往復したばかりで、かなり疲労が蓄積していた。

横浜から午後3時に間に合うように大阪へ行くのなんて、普通ならどうってことないのだが、翌日になっても疲労困憊な私が動けるようになったのは、お昼近くになってからだった。なんとかタクシーをつかまえて新横浜駅まで行き、実家の近くの斎場へ急いだ。しかし到着したのは3時半。納棺式は終わっていた。末期の水を取ってあげることができなかった。

それから後は、とんぼ返りでくたくたになった体をひきずってお通夜を終え、翌日の葬儀も終えた。私は抜け殻のようになっていた。

その後は四十九日に帰って以来、一度も大阪に帰っていない。ずっと調子が悪く、一周忌にもお盆にもお彼岸にも帰れない日々が続いた。一度もお墓参りに行ってない、罰当たりな息子である。

来月には三回忌がある。母には悪いが、今回はあえて行かないつもりだ。理由は2つあるが、ここには書けない。やがて妻も私も調子が安定した頃に、帰って墓前に花でも手向けることにしよう。

まだ雪はこんこんと振っている。

今日、我が家に友だちが遊びに来てくれた。嬉しいことだ。

以前に所属していた山岳会の仲間で、とりわけ仲が良かった友だちの一人。そんな仲の良い友だちだったのだが、ずっと会ってなかった。自分は2001年に療養のために入院して、それ以降は山岳会のイベントに参加しなくなり、そのまま休会し、数年後に退会してしまった。山岳会の仲間たちとはすっかり疎遠になってしまっていた。

彼女とも数年前にメールでやり取りしたのだが、それを最後に連絡をとってなかった。最後に会ったのはいつのことだったろう。2001年の入院のときに面会に来てくれたのだが、そのとき以来か、その後2回くらい総会に出席したので、それ以来かもしれない。

しかし、かつて共に汗を流して2000メートルを超える山々を登った仲間である。その絆は強い。本当に久しぶりだったのに、まるで先月まで一緒に活動していたような、そんな気分だった。昔話をはじめとして話は尽きず、あっという間に日が暮れ、あれ、もう4時間も経ったの?という状態に。楽しい時間ってのはあっという間に過ぎてしまうんだよなあ。

本当に自分は友だちに恵まれている、とつくづく思う。特に一緒に山を登った友だちは、学生時代の友だちとはまた違う「絆」を感じる。「友だち」というより「仲間」という方がしっくりくるような気がする。

皮肉なことに、自分が自殺未遂なんてやらかしてしまったため、いろんな方面に心配をかけてしまったのだが、それをきっかけに疎遠になっていた人たちと、再びコミュニケーションを取る機会が増えた。こんなブログ、いったい誰が読んでくれているのか自分ではわからない。でも、たくさんの人が見守ってくれている、そう考えると勇気が湧いてくる。

ありがとう、友よ。ありがとう、仲間よ。皆がいるから前を向ける。皆がいるから歩いていける。たとえ亀の歩みでも。