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鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

カテゴリー:日々の出来事

最近寝付きは良かったが、昨日は悪かった。今日から作業所に復帰するからプレッシャーを感じていたのか。

寝る時には久しぶりに大学1回生の定演で歌ったシューベルトの「ミサAs-dur」を聴きたくなって、YouTubeで探してそれを再生しながら寝た。すると、Gloriaの「Cum Sancto Spiritu」以降がぜんぜん違う。へ?と思って思わず起きてスマホを見てしまった。英語のコメントでやはり「Cum Sancto Spirituはなんか違うんやけど、他の曲から取ってきたん?」「2つのバージョンがあるんやで」と書いてあった。ひょえ~知らなかったなあ。分かる人はひとりもいないと思うが、一応載せておこう。下の動画の15:47からである。自分が歌ったバージョンは難解なフーガだったが、これはフーガでもなくかなりあっさりしている。

なんてことをしながら聴き入っていたらぜんぜん眠れない。この演奏は45分で最後までいったら最初からリピートされたが、60分経っても眠れない。トイレに行きたいのとのどが渇いたのでいったん起きて、牛乳を飲んだあとPCで久しぶりに「眠くなる音楽」をかけていた。その他何かやっていたが忘れた。23時過ぎには寝たと思う。

朝は7時に起きたが、もうちょっと寝ようと思って寝た。7時半にまた起きたが、もうちょっとだけ寝ようと思って少しずつ寝たり起きたりを繰り返して8時に起きた。7時半には起きるのが目標ではあるが、それは作業所に行くのに家を出るのが9時だからで、今日は午前中は某福祉施設のプログラムで家は9時半に出る。30分遅くてもいいことにした。

10時からはリカバリープログラム。今年度2回目。定員はコロナ対策のため5名に絞られているのだが、3人しか集まらなかった。午前中だとこういうことが起きやすい、とファシリテーターは言う。

今日のテーマはキーコンセプトのひとつ「希望」について。今日のメンバーはもうベテランの3人なので基本的なところはすっ飛ばして前半はディスカッション。そして後半は付箋を使ったワーク。自分の「希望」のイメージを大きめの付箋にマジックで書いていく。それを模造紙にペタペタ貼っていき、みんなで見てあれこれ話し合う。「これはどういうこと?」とかいろいろ。人によっていろいろ感じ方やイメージは当然異なり、他の人の話を聞くのはおもしろい。「なるほどうまく言うなあ」というのもある。「希望」というのは5つのキーコンセプトのうち一番抽象的で表現するのが難しいと思う。

11時半でいつもより30分短く終了し、第3作業所のカフェで山菜ピラフを食す。500円でコーヒーor紅茶もついてくる。コスパ最高。

山菜ピラフ

お昼ご飯を食べてから、歩いて作業所へ。あっつ~い。着いたら12時15分くらいだった。急いで福祉施設を出てきたが、もう10分くらい遅くても大丈夫かな。きれいな花束があった。よくわからんが、税理士さんが毎年くれるらしい。

花束

メンバーが持ってきたひまわりもきれい。遊助の「ひまわり」という曲も好きである。

ひまわり

ゆっくり休んでから2週間ぶりに仕事。相変わらずマスク。今度は青いマスクが来ていた。

青いマスク

私はマスクを入れるパッケージの袋に商品名とバーコードの印字されたシールをひたすら貼っていったが、それが終わったので最後は袋詰めをやっていた。

ちょいとトラブル。作業所のトイレが壊れていてちよっと大変な状態。今朝からタンク内に水が止まらなくてずっと水が漏れてる状態になったので、水を止めていたらしい。それを知らずに入って流そうとしたら、流れなくて焦った。トイレから出て尋ねたら、トイレの中に水を汲んだバケツがあるからそれで流してくれと言われて、なんとか流すことができた。業者は手配しているので今日は2階のトイレを使ってくれと。はあ、それならそうとトイレの扉にでも貼っておいてくれたらよかったのに。午後の作業中に業者が来てくれたが、部品がない、取り寄せになるというので明日も2階のトイレを使うことに。めんどうだけど、トイレが2つあってよかった。うちでトイレが壊れたらどうすればよいのやら。

作業後はバスに乗ってメンタルクリニックへ。今日はトリプルヘッダーで忙しい。診察は「暑いですねえ」「暑いですねえ」「暑いですねえ」「暑いですねえ」「いつまで暑いですかねえ」「いつまでも暑いですかねえ」「次は台風ですかねえ」「次は台風ですかねえ」という感じで終わった。

その後はルーティーンのカレー屋へ。今週のおすすめメニューはメンチカツカレーだったが、いまいち惹かれなかったので、何ヶ月か前に登場した新メニューの「チョリソー&ポテトフライカレー」を頼んでみた。

チョリソー&ポテトフライカレー

うん、チョリソーはぱりっとしてジューシーでうまいし、ポテトもうまい。しかし少しボリューム不足を感じる。今度は別のメニューを開拓してみよう。

いつもは徒歩で帰ってくるのだが、今日は体力を温存するためにバスで帰ってきた。土曜日の面接のために、今週は絶対に体調を崩してはいけない。「今日の疲れを明日に残さない」を徹底するのだ。できるだけ安全運転でいかなくては。

昨日は22時過ぎに寝た。お気に入りの合唱曲集のプレイリストをかけて、寝付くまで何分かかったかなあ。ピツェッティの「2つの合唱曲」、ドビュッシーの「3つのシャンソン」、ラベルの「3つのシャンソン」、プーランク「クリスマスモテット」が終わってバッハのモテ1まで覚えている。けっこう時間かかったかな。1時間もかかってはいないか。

朝は7時の目覚ましで起きて、そのまま元から止めてしまった。そして長い夢を見た。細かいところは端折るが、お祭りをやっていた。友達の女の子が遠くから来ていて、「ホテルに泊まってるけど、来る?」と言うのでついて行った。行ったらゴザの上にたくさんの人が雑魚寝。まるで山小屋。「ここに泊まってるの」と言うが、話す気も失せて帰ってきた。目が覚めて、かなり長い夢だったような気がして1時間くらい経ってしまったか、と思って時計を見ると7時14分。14分しか経ってない?こういうときの時間感覚は不思議に実感と大幅に狂う。起きなきゃ~と思っていたが、なかなか起きれない。8時にやっと起きれた。明日から大丈夫かな。

10時過ぎに一昨日の夜にAmazonで注文していた米津玄師のニューアルバム「STRAY SHEEP」がポストに届いていた。

STRAY SHEEP

私が、というかうちがCDを買うのは珍しい。いつもはレンタルで済ませている。しかもTSUTAYAでレンタル100円のキャンペーンをやっているときにまとめて借りるというせこさ。米津玄師はどちらかというと妻より私のほうが好きで、今までアルバムを1枚買って、3枚はレンタルした。妻もそれは全部自分のウォークマンに入れていたみたいなのだが、あまり聴いてないという。今回アルバムが出るとあって、私はほしいなと思ったけど、まあいつもどおりレンタルになるまで待とうと思っていた。しかし今回は妻のほうが「好きな曲がいくつも入っているから」ということでほしくなったという。じゃあ買おうか、ということに。

CDの値段は3,300円だけどMP3のダウンロードだったら2,500円。「ジャケットにこだわらなければ2,500円だけど」と言ったら、妻は「ジャケットにこだわる・・・」といったん言ったあと、私が難色を示したため、「ダウンロードでもいいよ」と言う。が、どう見てもCDがほしそうな顔をしているので、私もさんざん逡巡したあと、CDを買うことにした。レンタルだと借りてきてPCに取り込んですぐ返すし、それで何も困ってないから私は別にCD本体はいらんのだが。歌詞はネットで見れるし。でも妻はぼろぼろになったレンタル専用品のL’Arc~en~CielのCDでいいからほしいという人なのだ。

まあでもものすごく気に入っているものは「データ」としてでなく「モノ」として手元に持っておきたい、というのはわかる。1つ前に住んでいた超狭いアパートに引っ越す時に、あまりにも狭くてCDを置くスペースもなかったので全部iTunesに取り込んで売った。多分200枚以上はあったと思う。しかし、これだけは宝物だと思っていたSingers Unlimitedの「Magic Voices」という7枚組のCDだけは売らなかった。

今回のアルバムに関しては、実際に聴いてみた感想としては、私としてはなんだか今までのアルバムほどの感動はなかった(ファンに怒られそうだな)。同じような感じの曲が多くて、というか何かの曲に似ているようなのがちょこちょこあって、まあこれは他のアーティストでもよくあることなのだが、昔の曲のほうがもっと個性的でいろんな色があった。もちろん大ヒット曲の「Lemon」はいいし、他にもいい曲はたくさんある。しかし、15曲も入っているのなら、曲調のバラエティがもっとほしいというか。今までのアルバムで言うと、「ゴーゴー幽霊船」「砂の惑星」みたいなアングラ的な曲、「あたしはゆうれい」「かいじゅうのマーチ」みたいなほのぼのとしてたりコミカルな曲も好きなのだが、そういうテイストの曲はなかった。「アイネクライネ」「メトロノーム」のようなうるうる系の曲も聴きたいところだった。

まあでも妻はよかったと言ってるので、よかったのであろう。人は自分の行った行動が無駄ではなかったとか間違いではなかったと正当化したいがために無理に自分の感情を捻じ曲げて本当は若干の不満があるのにそれには蓋をして自分の中でそれが良かったのだと思い込もうとすることがありしかもそのこと自体に自分が気が付かないで(以下略)いや本人は素直によかったと言っているのでよかった。

今日は特に用事もないので、無理やり外に出ることもせずに音楽を聴いていた。新しいCDは4回聴いてみたが、やっぱりあまり心に残らない。それもまたよし。

2週間休んだが、明日からがんばらないとなあ。明日はとりあえず作業所ではなく、10時からリカバリー系のプログラムである。その後行けたら午後から作業所だが、行けるのか?今週は土曜日の面接に向けて超慎重モードなので、危険を感じたら極力回避しなければ。

昨日は22時に寝た。スマホの音楽プレーヤーで好きな合唱曲のプレイリストを作って、それを流していたのだが、すぐに寝てしまった。せっかく眠れなくても飽きないように好きな曲ばかり集めたのに、なんだかもったいないような気もするが、早く眠れたのでいいではないか。また今度は別の曲から聴き始めてリピート再生にして60分のタイマーで切れるようにしておこう。朝は7時の目覚ましで目が覚めた時に「今日は起きれそうだ」と思ったが、また寝てしまって8時起床。最近にしては早いが、もうちょっと早く起きないといかん。

10時頃家を出て図書館へ。本格的に暑くなる時間の前にさっさと読んだ本を返しに行った。できるだけ午前中に体を動かした方がいいだろう。そう思って図書館へ行った。本を返した後、暑いのでしばらく涼んでから帰ろうと思ってテーブルにつき、スマホを取り出したら電波が入らない。そうだった。この図書館、なんとかならんかなあ。電波が入らないのはもうどうしようもないだろうから、Wi-Fiが使えるようにできないのかな、と思っていたら投書箱があったので投書してみた。区役所でもWi-Fi使えるんだから、図書館でも使えるようにしてください。本棚の本を手にとって詳しいことをスマホで調べようと思っても、調べられないので不便です、と。

来週の今日、すなわち土曜日は横浜市の障害者の任用職員の二次面接。昨日何時のバスに乗ればいいか調べておいた。この猛暑の中スーツを着てネクタイをしてマスクまでして行くのは拷問なので、少し早めに着いてどこかでクールダウンできないか、面接会場の近くに喫茶店でもないか調べたら、すぐ近くにドトールがあった。作戦を練る。

集合は15時25分。その15分前、すなわち15時10分から入れるが、密になるのを避けるためそれより早く来ては行けない。バスは遅れたりすることがあるため、こういうときいつも私は時間に余裕を見て行くことにしている。結果、早く着くことが多くて、そのときはその辺でぶらぶらしているのだが、今回はこの暑い中スーツを着て外でぶらぶらするのは危険である。どうせならもっと早く行ってドトールでしばらく涼みながら、スマホに書いたメモを見ながらいろいろ頭の中を整理したい。そしてジャストのタイミングで会場に行くのだ。本当はノーネクタイで行って、ドトールのトイレでネクタイを結べないかとも考えていた。しかし外でネクタイを結ぶというのは、できるだろうがなんとなくリスクを感じる。

今日、シミュレーションとして調べた時刻のバスに乗って、そのドトールに行って、試験会場までの道のり(すぐそこだが)も確認してこようかと思ったのだが、そこまでするのはやめた。今日もたいがい暑いので、ますます熱中症のリスクを高くするだけだろう。これから1週間はとにかく今まで以上に体調管理に気をつけなくては。熱中症の予防が最優先だ。

図書館から20分あまりかけて歩いて帰ってきてぐったり。Tシャツ1枚でこれでは、スーツではかなりやばいかもしれない。当日になってあまりにも暑さが厳しいとタクシーを使おうかと思っていたが、もう今のうちからそうすることにした。幸いめっちゃ遠いわけではない。出発地点と到着地点を入力すれば経路とだいたいの乗車料金を教えてくれるサイトがあったので、調べてみたら1,800円くらい。家まで迎えに来てもらうとしたらそれに迎車料金か。それくらいだったらもう安心、安全を買おう。面接の場で暑さで頭がぼ~っとしてまともに答えられなくなるのが一番まずいのだ。

ところでタクシーの配車アプリというものを使ったことがないので、JapanTaxiのアプリをインストールしてみた。ちょっといじってみて、出発点と到着地点を指定して配車する直前までの画面まで行って閉じたのだが、これって乗る場所を詳細に指定できないの?GPSで現在位置を表示して、そこから地図を動かして乗る場所を指定するのだが、住所で指定できない。これでは暑い中うちの団地の前の道端で待ってないといけないではないか。そうではなくて、うちまで迎えに来てピンポンとチャイムを鳴らしてほしいのだ。道路で待つの前提なのか~。それでは使えんな。普通に電話で呼ぼう。

午後はゆっくり過ごした。20円引きのシールに、さらにローソンアプリのクーポンで20円引きでゲットしたチョコクランチエクレアがさくさくしてうまい。

チョコクランチエクレア

Amazonで買った「ちょっとだけこっそり素早く言い返す技術」を読んだが、私が求めていた内容とは違った。それにちょっと中身が浅いかな、という感じ。でも「マンガ版」が出るくらいだから人気はあるのか。まあ「小手先のテクニック」感は否めない。でもここで書いている「小手先のテクニック」を実践しようとしたらけっこう修行が必要だぞ。あっという間に読んでしまったが、そのわりに何が書いてあったかあまり覚えてない。

私は、たとえば作業所のボスから何かお願い(無茶振り)されたりした時にノーと言えなくて困っているので、そこで自分を主張するための何かのヒントになるかと思ったのだが、この本は「他人から叱られたり非難されたり、とにかく攻撃的な言葉を受けた時」にどう対処するかという内容なので、ちょっと違った。まあテクニックとして通用することもあるかもしれないから、もう一度くらい目を通してみようか。

先日、「これからの「正義」の話をしよう」を読んでいた頃だったか。ちょっと哲学的な頭になっていたとき、赤信号で立ち止まっていてふと考えた。

「自分はなぜ立ち止まっているのだろう」

住宅街の中の小さな交差点。3秒もあれば渡れる横断歩道。見通しが良くて到底車は来そうにない。他に誰もいない。渡ったところで事故に会う確率もほぼないし咎める人もいない。

多分、こんな小さな信号は無視してさっさと渡ってしまう人が多いだろう。そういう人はよく見る。だけどそういう人を尻目に自分はじっと立ってることが多い(つられて渡ってしまうこともあるが、それについては後述)。

誰も見ていない、車も来ないのに律儀にじっと信号が変わるまで待ってるのはなぜだろう。「法律で決まっているから」と言われればそれまでだ。自分は遵法精神は高い方だとは思うが、何が何でも絶対、というわけでもないつもりである。他のこういう軽微なものは、法から逸脱することも多いんじゃないかと思う。

一時期、これを「どこかで子どもが見ているかもしれないから」と人に説明したことがあった。自分たちは大人だから、車が来ないという安全を確認した上で、信号が赤だということをわかった上で渡るということができるが、それを子どもが見ていたら「信号が赤でも渡っていいんだ」と思ってしまうかもしれない、ということである。そういう説明は理屈として通ると思ってはいる。しかし、それだけでは説明がつかない。少なくとも先日赤信号でぼけっと突っ立ってた時はそんなことは考えていない。

これはなんだろうなあ、と思った。「法律を遵守すること」「信号を守ること」が正義なのか?道徳的に絶対に正しい「善」なのか?そんな崇高な道徳心を持ち合わせているのか?

そんな大袈裟な話でもないような気がする。

単に何も考えてないだけなのかな。赤信号だ。止まろう。以上、終わり。それだけ。よく見れば車なんか来てないじゃないか、渡ったほうが若干だが時間の短縮にもなる、そんなややこしいことは考えてない。思考停止しているのだ。たまに気まぐれに走って渡ることがある。これは「人につられる」のが理由の1つで、これも思考停止しているから何も考えずに人と同じ行動をとってしまうのだろう。ただ、他の人がいなくても渡ってしまうことがある。これについては説明不能。気まぐれなんだろうが、「気まぐれ」てなんだろう。サイコロを転がしたように、ランダムに自分の気分が変わるのだろうか。

赤信号の件は、思考停止した結果、「法律を守る方」「安全な方」に傾いているからいいものの、反対の方向に傾くと厄介かもしれない。作業所で単調な作業をやっているとだんだん思考停止してくる。単調な作業とは言え、ときどきイレギュラーな作業が紛れ込むことがあるのだが、ちょっと疲れていて本当に機械的に作業をしていると、そういうところでミスることがある。

あとはまあ、結局これは自分が歩いてきた道というかレールからはみ出したくないのだろう、ということかな。「赤信号では止まる」それがもう幼い頃から染み付いている。大袈裟なようだが、それが自分の生き方で、それから逸脱することができない。つまり「タッタッタと小走りに信号無視をして横断歩道の向こう側へ渡る」自分は、既に自分ではない、ということなのか。う~ん大袈裟か。よくわからない。でも昔からそうだったから、今もそうで、これからもそうなのだ。それが一番しっくりくる。でも人につられる。主体性がないのか?

などとどうでもいいことをエクレアを食べながら考えたのであった。

気がつくと記事数が5,000を超えていた。これが5,001番目の記事である。次は6,000を目指そう。無駄にたくさん書けばいいというものではないが。

昨日は22時に寝た。BGMはベートーベンの「ミサC-dur」。C-durというのはハ長調のことである。これは3回生の時に定期演奏会で歌ったミサ曲。懐かしいと思って聴いてると、Agnus Deiが終わってKyrieに戻った。リピートにしておいたからだからだが、この曲は30分くらいだったか、それだけしか入ってないCDだったのか。今調べたら44分のようだ。2回目のKyrieは覚えているがその後は覚えてない。1時間以内には眠れたようだ。

朝は7時の目覚ましで目が覚めて、何度も何度も何度も何度も起きようとしたが、どうしても起きれない。やっと起きることができてやれやれ、と思ってふと気がついたらまた寝ていた、という夢を何回か見た。この夢は昔からときどき見るが、よほど何かプレッシャーを感じている証拠。プレッシャーの正体はわかっている。また来週から作業所通いが始まり、そうすると7時台には起きないといけないのに、ここ最近9時過ぎまで寝てたりするからだ。なんとしてでも早く起きなければ、と焦っているのに、体は動かない。8時半になってやっと起きれた。作業所に行くのには9時に家を出るから、超急いで支度をしてぎりぎりか。

今日は10時から某福祉施設でマインドフルネス講座。去年も4回の特別講座があったのだが、最初の1回だけ出た。今年は3回あるが予約制とのことで、最初は3回とも参加予約したのだが、すぐにキャンセルした。密にならないようにするため定員が5名だけなのだが、最近体調が悪いので朝動けないことも多く、欠席してしまうと申し込もうと思ったのに定員オーバーで諦めた人がいたらその人に申し訳ない。いい加減に申し込むのはちょっといかがなものか、と思ったのだ。当日の朝になって、行ってみて枠があいていたら参加しようということにしていて、昨日センターで職員に聞いたところ、今の所1人分だけ枠があいていたので今日行ってみた。

マインドフルネス講座は、むむむ、よくわからない。要は禅であり瞑想なのだが、う~む、難しい。難しく考える必要はないのだが、難しい。認知行動療法は完全に理論的なものなので実践はともかく理解はしやすいし、SSTはテクニックなのでこれもまたわかりやすい。しかしマインドフルネスは感覚的なもので、ちょっと自分は今日1日で悟りは開けなかった。それはそうか。でもまあこういうアプローチもあるのはおもしろいなと思った。とにかく過去や未来のことを考えず、「今」に注意を向けるのだ。スティーブ・ジョブズもやっていたし、Google、Facebook、Yahoo!といった企業でも取り入れてるとか。そういうので近年一気にブームに火がついたそうな。

福祉施設のプログラムがいろいろ動き出した。通年でやっているリカバリー系プログラムも再開したし、こういう特別プログラムも再開した。今月はマインドフルネスだが10月にNLP、12月にSSTをやるという。おおお、ついにNLPが出てきた。NLPとは「神経言語プログラミング」といって、ちょっと胡散臭いとも言われているのだが、まあなんというか、乱暴に言えば「脳を騙す」的な感じのやつだったと思う。私は昔友達に、NLPを使えば記憶を上書きできると聞いた。ほんまかいな?

お買い物をして帰ってきた。それにしてもあっついな~。中華料理屋のランチメニューのゴーヤチャンプルーに惹かれたが、お買い物をして生ものとか持っていたから、しかたがなく帰ってきた。

お昼ごはんを食べてしばらくしてから、ふと「今日はユニクロの米津玄師Tシャツの発売日じゃないか」と気づく。米津玄師は歌だけでなく絵も描く。MVには自身が描いた絵もたくさん登場する。その米津玄師デザインのTシャツが今日発売されると予告されていたので、これは買わなくては、と思っていたのでユニクロのオンラインショップにアクセスしたら、見事に全種類売り切れ。あああ、やっぱ人気があるのか。残念。次はいつ入るのだろう。もう売らないのかな。

その後は昨日借りてきた「モナドの領域」を読み進める。なんだろう、この小説。最初はミステリーかなんかだと思って読んでいたのだが、どんどん話が斜め上に進んでいく。途中から何の話かさっぱりわからなくなった。筒井康隆が登場人物に喋らせるセリフを読んでると、ときどき自分の化けの皮を剥がれたような気がしてドキッとすることがある。人間の本能をえぐられるような感じがするのだ。なんというか、大脳新皮質を1枚1枚剥がされて、いつの間にか大脳辺縁系が剥き出しにされているような感覚だ。

16時半くらいに読み終えたが、奇々怪々な小説だった。無理にジャンル分けする必要はないが、最初はミステリーなのかと思ったが、そうではなく、なんというか哲学的SFとでもいう話なのか?しかしまあ、筒井康隆の博学ぶりとボキャブラリーの豊富さ、特に哲学の知識には舌を巻く。最初は意味がわからない単語を調べたりしていたが、きりがないので途中から調べるのも放棄した。この話はいったいどこに着地するんだろう、という感じで話は進む。いきなり話がメタレベルになったりもする。その辺はやっぱり筒井康隆。「この世界はいったいなんなのか」「ここは小説の中の世界だよ」「それを言っちゃおしまいやん」みたいな会話が。最後にはこんな論理式まで飛び出すが、まるで意味がわからない。論理学なんてまるでわからないので、もうなにがなんやら。これはでたらめなの?

論理式

最後の最後で、一応自分がぎりぎり理解できる範囲で話は着地した。こういう話を書けるというのは筒井康隆しかいないのではないだろうか。