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鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

カテゴリー:カウンセリング

そして今日に限って調子はいい。

昨日あれだけ落ち込んでいたのに、一晩寝るとけろっとしている。朝5時半に起きて、珍しく二度寝せずにずっと起きていた。午前中はテレビを観ていた。サンデージャポンはやっぱおもしろい。

昼からは彼女と一緒に昼食を食べ、雨も降っていることだし家でのんびり過ごした。今日はぜんぜん調子が悪くない。こんな何もない日に限って?「今日に予定があったらよかったのにね」彼女がそう言う。

だが、そういうわけではないような気がする。たとえ昨日の予定が今日にあったとしても、そのときは今日に調子を崩しているだろう。確かではないが、昨日のように大きな予定が一日に二つもあると、それだけで自分自身にプレッシャーを感じてしまい、それに押しつぶされてしまっていたのだと思う。カウンセリングでも以前指摘されたことだ。

そして何にプレッシャーを感じているのか。外に出ることではなく、人と交わることでもなく、「体力がもたずに途中でギブアップすること」を恐れているのではないか。これも以前カウンセリングの中で言われたことで、あくまでカウンセラーの見解であった。それを言われたときは自分の中ではあまり納得がいってなかった。しかし、今になって考えてみて、確かに「そうかもしれない」と思うようになった。

昨日のイベントはデイケアのプログラムなどとは違って、自分の趣味や友達づきあいであり、参加するしないは自分の意思によるものだ。そして自分が「参加したい」と思ったからこそ参加表明をしていた。しかし、いざとなるとそれがプレッシャーになるのだ。最後まで体がもたずに「途中で投げ出す」自分の姿を人に晒すことに対しておおいに脅威を抱いている。そうカウンセラーは指摘する。

そして明日である。月曜日。毎週書いているがブルーマンデー。前にちらっと書いたが、「明日はどうも行けそうにないんじゃないか」という「予感」を前の日から感じることがある。そしてたいていその予感は当たっている。しかし、今まではその予感を感じても、それを無視してきた。自分でなんとなく「明日は無理じゃないか」と感じても、あえて日記は「明日はどうなるだろう」とか「明日こそデイケアに行こう」そういうふうに書いてきた。これは現実の自分自身の心と向き合ってないのではないだろうか。

「悪い予感」を感じたその瞬間からプレッシャーはかかり始まっている。その予感から目をそむけるということは、つまりプレッシャーがかかっていることに自分で気がつかなくなる、ということ。そして次の朝、いきなりずどんと来たプレッシャーに押しつぶされて動けなくなるのではないか。

ではどうしたらよいのだろうか。やはりここは「自分の心と真正面に向き合う」ことが必要ではないか。「明日は無理かも、行けないかも」という予感を感じたら、素直に「あ、自分はプレッシャーを感じてるな」と受け入れてしまうのがまず必要なことだろう。そしてその上で「じゃあ、明日起きたら調子が悪い可能性は高い」ということを頭に入れておく。そうすると明日の朝にガツンと来ることはないかもしれない。プレッシャーがかかって調子が悪くても「まあ、予想通りだ」と受け流して開き直ると、案外早く立ち直って午後から行けたりするかもしれない。

今までは、自分の心の声を無視して「絶対行ってやろう」と言い聞かせていたにもかかわらずガツンとプレッシャーに押しつぶされて、そのショックで一日寝込んでしまう、というパターンではなかったか。

なんだかんだ書いたが、カウンセリングの一番最初の頃、もう一年前になるが、これは最初から指摘されていたことだ。自分のプロフィールを語る中で「大学で一番おもしろかった講義は?」という質問に対して「フロイトの夢判断の講義でした」と答えたためだろうか、カウンセラーはいきなりフロイトの理論を持ち出して私の心理分析を始めた。それによると、私は「超自我」=「〜しなければならない、〜ねばならないという外的な制約」が自分の意識と一体化しており、「エス」=「本来の自分の潜在意識。無意識の欲求」が自分でわからなくなっているというのだ。今の自分は「何をしたいか」ということが自分で見えなくなってしまっており、自分の行動基準は「何をしなければならないか」ということにとらわれすぎているという。

自分の無意識の声、「本当は〜したい」あるいは「本当は〜したくない」に気がつき、自分の意識の中に取り込むよって、それはコントロール可能となる。それは一年前に説明された。説明されたが頭で理解できても実感として肌で感じることがなかった。「あくまで自分で気づかないと自分は変えることができません」そうも言われていた。やっと自分の感触としてわかりかけてきたような気がする。少しずつであるが、見えてきたような気がする。焦らずに、少しずつだ。自分の無意識の声が「予感」という形で認識でき、それを認めたからといってすぐに行動に結びつくとは限らない。じょじょに、じょじょに。

久々にデイケアに参加した。と言っても、最後に少し顔を出してミーティングと掃除をしただけだ。その後3週間ぶりにカウンセリングがあった。

昨日は「明日こそデイケアに行くぞ」と気合を入れて寝た。そして今日はまた朝5時頃起きて、そのときも「今日こそデイケアに行くぞ」と気合を入れていた。にもかかわらず、また横になってしまって、また寝てしまって、そしてまた夜が明けると動けなかったのはなぜだろうか。「今日も無理なのか」「どうしようもないなあ」そんなことを考えつつ、目覚めたら昼だった。12時半頃、なんとかトイレに立った。そしてそのとき「今なら動けるかも」という感覚を覚え、急いでしたくして外に出た。行ってしまえばこっちのものだ。なんとか病院までたどり着いてみせる。そう思って病院まで行った。行くだけでばてばてだった。

カウンセリングでは、日記をつけ始めたこと、それを自分で読み返してみて、動けない、デイケアに行けない日にはいくつかのパターンがあることに気付いたこと、彼女からの電話でスイッチが切り替わったように行ける日があったこと、思い切って一日休みにすると次の日に行けたこと、そんなことをとりとめもなく話した。

カウンセラーと自分との間で禅問答のようなやり取りが行われる。自分の心探しが始まる。毎度のことながら、かなり消耗する。これは自分にとってかなりきつい。カウンセラーから直接指摘されたこともあったが、自分で導き出した一つのキーワード、それは今まで何度も出てきたが、やはり「焦り」ということ。

今は「デイケアに行く」というのはmustではなくbetter、つまり会社と違って「行かなければならない」ものではなく「行った方がよい」レベルのものであるのに、行けないことに執着してしまい、悪循環に陥っている。

思い切って「今日は休み」と決めて休んだら次の日行けたこと、彼女から電話がかかってきて話したら気持ちが切り替わったこと、これを成功例とし、それを自分の持ち札として選択する、それでダメなら「今日は行かない」という選択をすればいいだけ。「日記には『行けなかった』でなく、『行かなかった』と書いてください」そんなことを言われた。

それにしても、そのカウンセリングの後、自宅まで1時間以上かけて戻るのはきつかった。

今日も昨日とほぼ同じ一日を過ごした。
つまり、朝いったんは起きたものの、デイケアには行かずに14時頃まで寝て、その後起きても部屋の片付けをすることもなく、かといって他に何もするわけでなく、なんとなく時間が過ぎていってしまった。昨日と違うこと、それは昨日は最初からデイケアに行く予定ではなかったが、今日はデイケアに行く予定だったことだ。

なぜデイケアに行けないのだろうか?それはまだ休職する前に、なぜ会社に行けないのだろうか?と自問自答したのと同じ問いだ。一年のカウンセリングを経てこの答えはなんとなくわかっている。いや、「わかっているつもり」で、それを実感として捉えられているわけではない。あくまでもカウンセラーに指摘されたことだ。早い話、自分では「会社に行きたくない」という無意識が働いているということだ。

会社に行っていた頃、たびたび繰り返し見る夢があった。それは、朝になって「起きなきゃ、起きなきゃ」と思っているのになかなか起き上がれない。目が覚めているのに体が動かない。そしてえいっと気合を入れてなんとか起き上がることができ、そのまま会社に行く。という夢で、しばらくすると自分がまだ寝ていることに気づき、「しまった、さっきのは夢だったのか」と思ってもう一度「起きなきゃ」と思って、えいっと起き上がる、がまたそれが夢だった…、というのを10回くらい繰り返すのだ。

その話をカウンセラーにしたところ、ものすごく強い強迫観念に取りつかれていて、本当は会社に行きたくないのにそのことに自分自身気がついてない、と指摘された。「会社に行かなければ」という「超自我」の束縛を、疲れ果てて悲鳴をあげている心と体が必死に夢の中でブロックしている、そういうことらしい。

そして今、そういう夢は見ていないが、デイケアに行けない、かといって他に何か有意義なことをしているでもない自分がここにいる。状況は全く同じである。自分としてはそんなに強いうつ状態に陥っているわけではないと思っているが、どうにも体が動かない。本当にデイケアに行きたくないのだろうか。だとしたらそれはなぜなのか。あるいは単に外に出るのがめんどうなのか。人と会うのが嫌なのだろうか。もっと単純に、ただ寝ていたいだけなのだろうか。いつもわからなくなる。考えはループする。いや、ただループするだけでなく、回りながら落ちていく。スパイラルに下降していく。

今日は久々に朝から調子がよく、デイケアに午前中から行くことができた。午前中のプログラムはスポーツだったが、最近かなり体力が落ちていて、まともに参加すると午後から動けなくなるかもしれなかったので、準備運動だけやってあとは見学していた。うちの病院のデイケアは県下一厳しくて、スポーツもかなりハードなのだ。県の病院対抗のデイケアバレーボール大会では毎年優勝しているらしい。

午後のプログラムも終わり、その後は週に一回のカウンセリングだった。先週の月曜日が体育の日で休みだったので2週間ぶりである。先月も三連休が2回あったため2回飛んでしまった。来月も祝日が1回ある。月曜日はただでさえ日曜の振り替え休日が入るのに、ハッピーマンデーでさらに休みが多くなってしまった。月曜日というのはとかく損だ。

入院中から続けているカウンセリングも、もう1年になる。うだうだと悩み事をカウンセラーに聞いてもらってすっきりする、というような生易しいものではなく、どっぷりと自分の心理分析をしている。自分の話をし、それに対してカウンセラーが「そう思ったのはなぜですか?」などと突っ込みを入れてくる。そしてその答えを必死に考える。それがかなり辛い。なかなか言葉にならない。言葉にならないのは、それが無意識下にあるからで、言語化することによってそれは意識上に上ってくる。自分で自分の深層心理を必死に探っているのだ。そうすることによって自覚していない本当の自分を知り、自分を変えていくことができるという。

1年も続けてやっと少し自分がわかりかけてきたのだが、カウンセラーの指摘する「自分の姿」が自分で思っているものと食い違うためにいつも違和感を感じる。自分のことを自分では「甘えすぎ」といつも思うのだが、カウンセラーは「自分に厳しすぎ」というニュアンスで捉えているようだ。このギャップが自分を苦しめているのだと思うのだが、それを実感として自覚できるまでには至っていない。いつの日か悟りは開けるのだろうか。

やはり何度も目が覚める。6:00まで寝ていたが、寝ているのか起きているのかわからない状態。自分ではもう目が覚めているような気がするが、夢は見ている。起きていて空想しているようだが、内容はわけがわからず脈絡はなく、浅い眠りの夢だ。何度も目が覚めたが、ある程度はぐっすり寝ていたのだろうか。

元気がない。疲れがとれていない。朝食後もずっと寝ていた。眠っていた。作業棟へは今日は行かないでいいや、そう思って寝ていたが、9:30頃起きあがり、やはり行こうと思って着替え、作業棟へ行った。

作業棟で体力トレーニングをやったが、その後やはりやる気がなくて、一般トレーニングはやらずに戻ってきた。鬱状態、不安定とまではいかないが、元気がない。気力がない。ハーブティーをいれて飲んだり、ホールを徘徊したりした後、ベッドで「よい依存、悪い依存」の続きを読み出した。あまり頭に入らない。

看護婦から呼び出しがかかり、今日のカウンセリングが10:30からに変更になったのを知らせ忘れていたので、すぐに行ってくださいという。時計を見ると10:35だった。まあ、この病院ではよくあることだ。フリースをはおってすぐに行った。

カウンセリングでは、半年を過ぎて焦りが出ていること、Iさんが退院する前の不安そうな顔を見てから自分も不安になってきたことなどを話した。趣味に関してもいろんな面で勝手に世話役をやっているのを、自分の共依存的な面かもしれない、という話をした。みんなに頼られることに自分は依存しているのではないか、自分の存在価値を無理矢理作り出しているのではないか。昨日帰ってくる途中で寝てしまって電車を乗り過ごしたことも話して、今回の外泊では自分でコントロールできたつもりで、疲れはたまってないと思っていたのに、後からどっと出てきて、疲れが自分にたまっていることが自覚できていなかったことにショックを受けたことも話した。今日不安定なのはそのせいかもしれない。それも話をした。いつになったら自分は変わるのか。少しずつ変わっては来ているのだろう。Kさんは私が変わったと言っていた。カウンセラーも半年いて変わってきてるはずだ、と言った。