それは急すぎた。
おかんの容態が急変したとの知らせをもらったのが先週の金曜日。
しかし、雪が降ってものすごく寒くて体調が悪かった私はすぐに動けず、日曜日にようやく駆けつけることができた。
おかんはぼろぼろになりながら、しかし意識はしっかりしていて、話もちゃんとできた。
新幹線で来たから疲れたやろう、はよ家に帰り、て病室を追い出された。まるでトイレの神様だ。
次の日には、食事もできずに点滴をうっていたおかんが、流動食を食べられるようになっていた。回復の兆しがある。まだ望みがあると思った。
月曜日にもお見舞いに行き、火曜日には病院に寄って、「おかん、僕いったん横浜に帰るからな、また来るからな」そう言って横浜に帰った。しっかりと話もできていたし、あと少しはもつだろうと思っていた。
次の日の水曜日。夕方に兄貴から連絡がきた。
「さっき医者から話を聞いたけど、もうもってあと数日らしい」
そんなばかな。よくなってきたんちゃうんか。耳を疑った。
夜の10時頃、兄貴から電話が来た。
「病院から電話があったから行ってくる」
妻が出た電話にはその一言だけだった。
そしてしばらくして兄貴からまた電話がきた。
「間に合わへんかった」
その言葉の意味を理解しようとするのを心はかたくなに拒んだのだが、そんなことは無駄な抵抗だった。
あっけなかった。
おかんは誰にも看取られずに天国へ行ってしまった。
早過ぎるよ。
まだ69歳だった。
0時頃、お通夜が翌日だと知らされて、そこからは何をどうしたのかよく覚えていない。とにかくしっちゃかめっちゃかで準備をしたが、力尽きた。
大阪にとんぼ返りすることとなった私は、疲れがたまっていて調子も悪いのもあって、朝からは動けなかった。家をやっとで出たのが正午前だった。タクシーを拾って新横浜駅まで行って新幹線に飛び乗った。
納官式は15時からだったが、着いたのは15時半くらいで、もうお棺の蓋は閉じられていた。間に合わなかった。末期の水をとってやれなかった。あと1時間、いや30分早く動けていたら。
それからはお通夜、翌日は告別式と初七日の法要も済ませて、お経を聞きっぱなしだった。体調が十分でない中、正直疲れた。
でもおかんを最後まで見届けてあげないと。最後まで家に連れて帰ってあげないと。
父親の車で実家に戻った。お骨は自分が膝の上に抱えていた。
「おかん、うち戻ってきたで」
おかんは無事成仏できたのだろうか。それとも千の風になったのだろうか。
おかん、見守っていてな。いつもありとあらゆるところに気配りをするおかんやったから、きっと自分のことも守ってくれるよな。見守ってくれたらそれでいいから、よけいな心配とかせんでええからな。
おかん、これからもよろしく頼むな。