新聞に載っている書籍の広告って、ときどき怖いのあるけど、これはちょっと・・・。
まだ「呪いのかけ方」でないだけましか。
新聞に載っている書籍の広告って、ときどき怖いのあるけど、これはちょっと・・・。
まだ「呪いのかけ方」でないだけましか。
だめ、今日も動けず。皆欠勤3週連続達成。
夕方、少し調子がよくなってPCに向かってLinuxで遊んでいた。ところが、妻に「セブンイレブンまで行く元気ある?」と言われた。妻も体調が悪いときは無理をせず、夕食を作るのを省略してコンビニの弁当にすることはよくあるので、今日もそれでいいやと思って椅子から立ち上がった。
だがしかし。
動けなかった。
なぜかわからないが、いきなり動けなくなった。コンビニに行くくらいは大丈夫だと思ったのに、とりあえず部屋着から着替えなくては、というところでフリーズしてしまった。
妻はそれほど調子が悪かったわけでもなく、夕食を作ってくれた。あああ、ごめんよ。稼ぎもなければコンビニにも行けない、ダメダメな旦那である。仕事もせずに一日中ぶらぶらしているだけで何の手伝いもせず、病気の妻に家事も任せきっているダメダメな自分に罰を与えてください。だめな人間なんです。だめなんです。自分はだめなんです。
いかん、自己嫌悪モードになっている。鬱になるととにかく自分を責めにかかるから気をつけなければ。
ところで、この「自己嫌悪モード」という鬱の症状は気をつけないといけない。
たとえば私の場合、もう3週間も会社を休んで、職場の人にも迷惑をかけて本当に申し訳ないと思っている。みんな優しいから私を責めるようなことは言わないが、実際にタスクをアサインしたり一緒に仕事をしている人は、「事情はわかっているけど、やりにくいなあ」と思っているかもしれないし、そうでないかもしれない。
しかし、周りの人がどう思っているとかに関係なく、休んでいる本人は、
「とにかく申し訳ない」
と思って、それがどんどんエスカレートすると、
「いっそ自分はこの仕事から外れて、代わりにもっときちんと出勤できる人を雇ってもらった方が、みんなのためになるだろう。」
「じゃあ仕事やめてしまおうか。」
「でも仕事やめてどこへ行く?」
「こんな状態ではどこへ行っても迷惑をかけるばかりだ。」
「じゃあ自分はいったい何のために生きているんだろう。」
「自分がいても世の中には何の役にも立たない。自分なんかいなくなった方がいいんだ。」
こんな思考に陥ったりする。そして、時として自らの命を絶つ者も少なくない。こういう思いを、
「希死念慮」
という。ドラマ「救命病棟24時」の最終回でも出てきた言葉で、聞いたことがある人もいるかと思う。一般的に「希死念慮」は「自殺願望」と同じ意味合いで使うことも多いが、うつ病においては少し違う。
「自殺願望」は、もっと広い範囲の意味で「死にたい」という思いであり、理由は「いじめにあって現実を生きるのが辛いから」とか、「失恋してもう生きていくのがいや」とか人それぞれで、とにかく「死にたい」ということ全般を指す。
しかし、「希死念慮」は「死にたい」ではない。「死ななければならない」である。「自分には生きていく資格はない」という、鬱特有の自己否定、自己嫌悪、自責の念からくる。うつ病で一番怖いのが、希死念慮から自殺してしまうことである。間接的にではあるが、(躁鬱病も含めて)うつ病は「死に至る病」と言えるだろう。
私の場合、カウンセリングなどを経て、「自己嫌悪モード」に入っても、そこからはい上がってくるのにだいぶ慣れた。結局のところ、どこまで開き直れるか、という感じなのだが。それにしても、久々にこのモードに陥ると、やっぱつらいや。こうやって日記書いていると、頭が整理されて落ち着いてきた。うん、これも認知行動療法の一環である。これでよし。