昨日は結婚式でとっても疲れた。今日はもう一日中動けないだろう、しばらく後を引きずるかもしれない、そう思っていた。
が、今日は久しぶりにカウンセリングに行くことができた。土日の合唱の練習に出れて「明日もこの調子で」と思ったときは体が動かなくなる癖に、あきらめたら動けたのはどういうことだ。
まあ、動けたといっても13時過ぎからである。本調子ではもちろんない。だが今まではこの時間になっても「動けそうで動けない」状態が続いてた。何が自分を引き止めているのか。
それは今日のカウンセリングの中で少しずつ見えてきた。早い話、自分の本音、自分の深層心理の中で「行きたくない」と思っているから、ということなのだ。そして自分はそれを自覚していない。なんとしてでも「行かねばならぬ」ものとして、強烈な「超自我」によって自分の無意識を抑え込んでいる。「超自我」と「無意識」は強烈にぶつかり合い、鬱という形で現れる。自分の無意識、この場合「行きたくない」という思いに自分が気がつかないことを、心理学では「否認」というらしい。そう、自分はずっと否認し続けているのだ。
この無意識下の自分の本音を実感として受け止め、自分の意識の中に取り込めば事態は好転する、らしい。だが自分は未だ認めることができない。すると、「行かなければ」という「理性」の声に対して、それを引き止める無意識の声が強引に自分を抑え付ける。それが「鬱」として現れる。もう何度も同じことを書いているような気がする。でも依然として自分では実感としてわかってないのだ。
簡単な話だ。歌の練習は「行きたい」から行けて、デイケアやカウンセリングは「行きたくない」から行けないだけなのだ。だが「行きたくない」という自分が自分の中に存在することを自分の理性は認めようとしない。昨日の結婚式は単純に「行きたくないわけではない」から何とか行けたのだろう。
そして今日のカウンセリングに行けた理由は、もっと大きな「いやいや」が自分の中に発生して、これを食い止めようとしたから。何のこっちゃと思うかもしれない。先週デイケアのスタッフから電話がかかってきたことは前に書いた。そのスタッフとは私のカウンセラーその人なのだが、「この状態だと入院した方がいいんじゃないか?」と言われたことが自分にとって相当ショックだったようだ。自分のことなのに「ようだ」という風に表現しなければならないのは悲しいが、ともかくそうなのだ。もっと大きな「いやいや」とは「入院すること」なのだ。入院はもうごめんだよ。私は大丈夫だから入院する必要はない。今日はそれを言うためにカウンセリングに行けたのでは、「行きたくない」よりも「入院したくない」が勝っただけなのではないか。カウンセラーと1時間近く話して出た一つの仮説がそうなのだ。あくまでも「仮説」であり、本当にそうなのかはわからない。自分で気がつかなくてはならない。
まあ、なんにしろ「本当の自分」を自分で意識して初めてコントロール可能になる。「本当の自分」を見つけられる日は来るのか。自分探しの旅はまだまだ続く。