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鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

なんだか最近、生きるのがつらい。

いや、最近ではなく、もっともっと前からだったが、特に最近、一向に調子が悪い中、何も前に進まないことに対する焦燥感、無力感が強くなってきた。

自分は生きている意味があるのだろうか。

会社勤めをしていたときは、プロジェクトでは属人的な要素も多く、「休むとみんなに迷惑がかかる」といつも思っていた。だからこそ、病気になって休んでばかりいると、いつも申し訳なくてしかたがなかった。しかし、実際は自分ひとりが欠けた所で、それなりに組織というものは回っていくものだ。自分が存在しなくても、誰も困りはしない。

最近私が気に入っている「Goose House」という、シンガーソングライターのユニットの楽曲に、こんな歌詞が出てくる。

たとえば君が死んでも
世界は変わらない
悲しいほど

自分ひとりが消えた所で、そりゃ何人かの人に迷惑をかけたり悲しませたりするかもしれない。しかし、それで世界の何が変わるというのか。70億分の1の、たったちっぽけな自分が消えた所で。

今のところ「死にたい」とは思ってないが、積極的に「生きたい」とも思わない。あえて今の心境を述べるなら、

「いつまでこんなしんどい思いをして生きていかなければならないのだろうか」

に尽きる。どんな形であれ、「早く楽になりたい」ことに間違いない。

「神は越えられない試練は与えない」などと言う人もいるが、自分はキリスト教徒でもないし、そもそも宗教は嫌いだ。宗教曲は好きだが、宗教は嫌いだ。くどいほど書くが、宗教は嫌いだ。これは自分に宗教を勧める人があまりにもうざいので、あえてもう一度書くが、宗教は嫌いだ。いい加減にしろ。

神でなくてもいいから、自分より高次元の何かに身を委ねる、というステップが、鬱からの脱却のための一つのメソッドとして、いろんなところに出てくる。自分もそういう境地になれるか、考えたことがあるし、うつ仲間と議論したこともある。しかし自分の場合、まあ無理だ。

何度も書くが、宗教は嫌いだ。それは「神様」という概念に対するアンチが幼児体験として自分の中に存在し、成長の過程でその「アンチ宗教」を伴って自分の自我が形成されたからだろう。自分が幼い頃にさんざん聞かされた「神様」は、自分の大学の先輩だとか。全くアホらしい。自分にとって、すべての宗教はカルトである。大いなる偏見があることは百も承知の上で書いている。

それとも、いっそ怪しげな何かに洗脳されたほうが、却って楽になるのかもしれない。たとえそれが反社会的なものであったとしても。


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