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鬱るんです
躁鬱病のITエンジニア「はまー」が心と体の模様を記した雑記帳。 大手IT企業で心身ともにぼろぼろになり退職した後、ほそぼそと働いたり事業を立ち上げようとして頓挫したり、作業所に通ったり障害者雇用で働いたりと紆余曲折したが、今は無職な毎日。

横浜は珍しく雪。どうやら関東一円は大雪のため、いろいろ大変なことになっているようだ。

 20130114snow.JPG

横浜に雪が積もったのは久しぶりのような気がする。何年ぶりだろう。
この雪景色を見ると、母が亡くなったときのことを思い出す。

一昨年の2月、入院中の母の容態が悪化したとの知らせを受けて、かなり調子が悪い中、重い体を引きずって大阪へ帰り、病院へ直行。

母は、前に会ってから1年も経ってないのに、まるで骨と皮だけのようにやせこけていた。最後には精神的にも少し異常をきたしていたが、私が来たのを喜んで、
「○○(私の名前)が来てくれた。○○が来てくれた」
と無邪気な子どものように叫んでいた。

しかし、30分くらい話したところで、
「あんたは早く帰り!あんたは早く帰り!」
と言われた。

母はいつも私の体調のことを気遣ってくれていた。心配ばかりかけていた。

私が横浜からはるばる駆けつけて、疲れているだろうから早く休みなさい、そういう親心が、少し歪んでしまった精神というフィルターを通して、こんな言葉になったのだろう。あの優しかった母が、智恵子抄の一節のように壊れていくのを見るのが切なかった。

翌日、兄夫婦の家に泊めてもらった私は、兄と一緒に再び病院へ行った。その日は今日の横浜と同じように、かなりの雪が降っていた。兄とふたり、駅までの急な坂道を、転ばないように気をつけながら登っていった。

その日も少し話しただけで、
「あんたは早く帰り!あんたは早く帰り!」
と言われた。

その後、少し容態が安定したと看護師から聞いて、その翌日に横浜に戻ることにした。帰るときにまた病院を訪れ、
「僕、いったん横浜に帰るからな。また来るから」
と言ったら、母はその日も、
「あんたは早く行き」
と言っていた。

私はおとなしく横浜へ帰った。

その翌日の夜10時頃だったろうか、母が亡くなったと兄から連絡を受けた。
兄は、
「ありがとうな。ほんま、ありがとうな」
と私に繰り返して言った。

自分は震える声で、
「お兄ちゃん、いろいろ大変やと思うけど、よろしく頼むな」
と言うのが精一杯で、その後はずっと泣いていた。

夜遅くに亡くなったから、お通夜は翌々日くらいになるだろう、と思って休むことにしたのだが、0時頃に再び兄から電話がかかってきて、
「明日のことやけど」
と連絡が入り、お通夜が午後6時から、納棺式は3時からと言われた。そんなにすぐにやるとは思っていなかったので、私と妻は急いで大阪へ帰る準備をした。しかし、私はかなりしんどいなか横浜と大阪を往復したばかりで、かなり疲労が蓄積していた。

横浜から午後3時に間に合うように大阪へ行くのなんて、普通ならどうってことないのだが、翌日になっても疲労困憊な私が動けるようになったのは、お昼近くになってからだった。なんとかタクシーをつかまえて新横浜駅まで行き、実家の近くの斎場へ急いだ。しかし到着したのは3時半。納棺式は終わっていた。末期の水を取ってあげることができなかった。

それから後は、とんぼ返りでくたくたになった体をひきずってお通夜を終え、翌日の葬儀も終えた。私は抜け殻のようになっていた。

その後は四十九日に帰って以来、一度も大阪に帰っていない。ずっと調子が悪く、一周忌にもお盆にもお彼岸にも帰れない日々が続いた。一度もお墓参りに行ってない、罰当たりな息子である。

来月には三回忌がある。母には悪いが、今回はあえて行かないつもりだ。理由は2つあるが、ここには書けない。やがて妻も私も調子が安定した頃に、帰って墓前に花でも手向けることにしよう。

まだ雪はこんこんと振っている。


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